「祝福」とは、単に幸福を祝うことではありません。
一見すると暗闇に見えるような、そんな事象のなかに、光を見続けることです。
それは、私がカウンセリングのなかで最も大切にしていることでもあります。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.あなたに与えてれているものを祝福しよう
祝福することで、もっとも高いレベルの意識から、よろこびと癒しを生みだすプロセスへと入ることができます。
たとえば、暗闇のように見える状況があなたにもたらされたとしましょう。
それに祝福を与えることは、はじめはちょっとした勇気がいるかもしれませんが、その暗闇を祝福したとたん、そこに光が灯ります。
そして、暗かったその状況に解決のきざしが見えはじめるのです。
暗闇を祝福することにより、人類にとってもっとも高いレベルの愛とよろこびの本質が姿をあらわします。
祝福するとき、そこにある愛をみんなで分かちあうことができます。
そして愛があれば、人はどんなことにも耐えられます。
どんな肉体的・感情的・精神的な試練であれ、その人が学ぶべきことを愛によって乗り越えていけるのです。
あなたに与えられているものをすべて祝福しましょう。
何が与えられても、それを贈り物にすることができます。
そして、贈り物を受けとって祝福すれば、さらにその贈り物を存分に体験できるようになります。
祝福こそ、宇宙の真実の状態なのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.340
2.「祝福」の意味と恩恵について
今日のテーマは、「祝福」でしょうか。
「祝福」がもたらす、大きな恩恵について考えてみます。
暗闇をこそ、「祝福」すること
引用文においては、自分に与えられているものすべてを、「祝福」しようといいます。
そして、「祝福」することで、最も深い癒しとよろこびがもたらされる、と。
「祝福」とは、字面通りの意味で取るならば、「幸福を祝うこと」です。
ところが、今日のテーマでは幸福どころか、暗闇を「祝福」せよ、と言います。
考えてみると、不思議ですよね。
何かの幸運…たとえば、
事業で成功したり、
子どもを授かったり、
美味しいご飯を食べることができたり、
困ったときに相談できる仲間がいたり、
日々健康で過ごせたりすること…
そうしたことを「祝福」しよう、というのなら分かります。
もちろん、それにしたって、人間は「慣れ」の生きものなので、すぐにそのありがたみを忘れてしまうものですが…
そうした幸福を「祝福」するとともに、暗闇をも「祝福」せよ、と引用文はいいます。
これは、常識的に考えると、おかしなことです。
誰もが幸福を願い、不幸や暗闇に陥ることを避けようとするのに。
その暗闇を「祝福」しようとは、違和感を覚えるかもしれません。
しかし、与えられたものすべてを「祝福」すること、それは人の持つ最も偉大な才能の一つだと私は思います。
幸福のみならず、一見すると暗闇に見えることすらも、「祝福」をすることができる。
しかし、この「暗闇を祝福する」というのは、なかなか一般的な感覚とは相容れないものかもしれません。
もう少し、具体的にこの「祝福」を見ていきますね。
「祝福」とは、価値、才能、魅力を見続けること
「祝福」を、字面通りの「祝う」という面だけで見てしまうと、少しわかりづらくなってしまうかもしれません。
しかし、今日のテーマのなかでの「祝福」とは、「祝う」ことだけではありません。
もちろんそれも「祝福」の一部ですが、暗闇を祝う、といわれると違和感が出てきてしまいます。
不幸な事件や事故を祝う、と聞くと、なんだかとっても性格の悪い、いじわるな人みたいになってしまいますもんね…
「祝福」とは、そういった意味ではありません笑
「祝福」とは、暗闇なのか、幸福なのか、その状況によらず、どんなときにもその中に光を見続けることです。
その光とは自分の光でもあり、相手の光でもあり、あるいは世界そのものの光でもあります。
その光を信じ続けること、それを「祝福」とよびます。
光を見続ける、というと抽象的になってしまいますが、これを具体的なことに落とし込むのであれば、自分の価値や才能、魅力を見て、それを信じ続けることなのでしょう。
幸福なのか、不幸なのか。
光の中にいるのか、暗闇の底にいるのか。
それは、ただうつろいゆく事象に過ぎません。
どんなときにも、どんな状況でも、あなたの持っている光は、失われることはありません。
ただただ、いつも変わらず、そこに在り続けます。
そこにフォーカスすることができると、暗闇のなかでの痛みは、かけがえのないあなただけの光に変わります。
「あのときは、ほんとに人生最低のできごとだと思ったよ。けれども、あれがあったからこそ、いまの自分があるんだよな」
ある種の痛みを、その光に変えることができた方は、よくそんなことを言います。
いえ、その表現も、少し不正確な気がします。
その光は、もとともその人が持っていて、ずっとそこにあったものだったのでしょうから。
天気が移ろうように、自分の周りの世界が、幸福になったり、あるいは暗闇になったりする。
その暗闇になったときに、人は自分の光を思いだすことが多いものです。
それは、暗闇に「祝福」したとしか、いいようがないのかもしれません。
3.幸せは、不幸の帽子をかぶってくる
カウンセリングで大切にしていること
こう書いていくと、「祝福」とは、私がカウンセリングのなかで、最も大切にしていることのように感じます。
どんな悩みや問題があったとしても、あなたの光はどこにあるのか、見続ける。
そして、それをお伝えし続ける。
価値、才能、魅力、あるいは光を、伝え続ける。
どうやったら、その素晴らしさを実感してもらえるのか。
あらゆる表現を考えながら、それを伝え続ける。
そうした光を伝えることを、私は最も大切にしています。
どんな重く苦しいお話の内容であったとしても。
いまの自分で欠けているものなど、何もない。
それに気づいたとき、人とその周りの世界は静かに、しかし確かに動きはじめます。
だからでしょうか。
私はカウンセリングのなかで、具体的な問題解決に向けて、なにか提案をしたり、提言をしたりすることは、あまりありません。
方法論は世にあふれているし、必ずご自身に合ったものを、あなたは見つけることができると信じているからです。
それよりも。
ただそこにいて、感情が流れるときはそれを流し、あなたとともにいる。
そして、あなたの光を、伝え続ける。
そうありたいと、思っています。
一見すると暗闇に見えるような、何らかの事象ではなく、その人そのものの光を見続けることを、「祝福」と呼ぶのであるならば。
「祝福」とは、私がカウンセリングで最も大切にしていることの一つのように思います。
坂村真民さんの「幸せの帽子」
仏教詩人として昭和の時代を生きた、坂村真民さん。
今日のテーマを考える中で、坂村さんの詩の一節が思い浮かびました。
「幸せの帽子」という詩です。
すべての人がしあわせを求めている
しかし幸せというものは
そうやすやすとやってくるものではない
時には不幸という帽子をかぶって
やってくる
だからみんな逃げてしまうが
実はそれが幸せの
正体だったりするのだ
わたしも小さい時から
不幸の帽子を
いくつもかぶせられたが
今から思えばそれがみんな
ありがたい幸せの帽子であった
それゆえ神仏のなさることを
決して怨んだりしてはならぬ
坂村真民「幸せの帽子」
この詩が、私は本当に好きです。
平易な言葉のなかに、深い真実が包含されていると感じます。
読んでいると、手を合わせたくなるような…そんな心持ちが、静かにするのです。
「神仏のなさることを 決して怨んだりしてはならぬ」。
それは、聞きようによっては、とても他人軸で、とても非合理的で、とても前時代的なものに聞こえるかもしれません。
けれども、歳を重ねるごとに、心理学の学びを深めるほどに、ひとりひとりのクライアントさまの言葉と向き合うほどに。
その言葉は、私のなかで重みを増していくように感じます。
一見すると、不幸の帽子をいくつもかぶらされているように見えるかもしれない。
けれども、それは実は、「幸せの帽子」なのかもしれない。
私はカウンセリングのなかで、あなたの光を見続け、そしてそれを伝え続けることで。
「幸せの帽子」を表現していきたい。
そんな風に願っています。
あなたの幸福に、そして暗闇に、心からの祝福を。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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