大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「不幸自慢」が教えてくれる「自立の依存」の心理と、その抜けだし方。

「不幸自慢」をしてしまう裏には、「自立の依存」とよばれる心理があります。

しかし、自分の傷跡を勲章にするよりも、相手とつながりつづけることの方がよっぽど大切です。

その架け橋のかけ方について、お伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.関係のなかで大切なのは傷跡ではなく、自分をひろげつづけていくこと

過去の傷跡を勲章のように大切にするのは、まだ学びきっていない暗いレッスンがあるということです。

それは自分の人生がどれほど大変だったか、だからこそ自分はどんなにすばらしい人間なのかを証明するために見せているのです。

 

「見てください、私はこのとき、こんなに大変だったんです。それでこんな傷跡ができてしまったんです。私って強いでしょう、えらいでしょう?」

 

それはまた、あなたの自己概念を証明したり、罪悪感のつぐないのためにつくった傷跡かもしれません。

 

人間関係で大事なのは、過去においても、現在でも「傷跡」ではありません。

真実を探すために、役割や義務という犠牲や沈溺を超えて自分を広げつづけ、相手につながることなのです。

そしてその結果、自分自身のなかに天賦の才を見つけることなのです。

 

人との関係において本当に自分自身を与えていくと、自分を犠牲にせず人とかかわる方法が学んでいけます。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.344

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2.「不幸自慢」をしてしまう心理

今日のテーマは、「不幸自慢」でしょうか。

程度の差こそあれ、多くの人が陥りがちな心理について、考えてみます。

傷跡を勲章にして、後生大事にし続ける

自分の大変さをアピールするのは、よくある話ですよね。

テストの前に「全然勉強していない」アピールをする人や、あるいは「全然寝てない」アピールくらなら、かわいいものかもしれません。

その延長線上に、「不幸自慢」の心理はあるのかもしれません。

「見てください、私はこのとき、こんなに大変だったんです。それでこんな傷跡ができてしまったんです。私って強いでしょう、えらいでしょう?」

この心理、私はすごーくよく分かります。

表立って誰かに言うかどうかは別として、ずっとそんなことを思っていました。

自分の傷跡を、勲章のようにしてしまっているわけですよね。

お恥ずかしい話ですが笑

こうした「不幸自慢」をして、傷跡を後生大事にしつづけてしまう心理。

その一つには、「それによって自己価値を保つため」という心理が考えられます。

自分自身が、自分に対して価値を感じられない、無価値観を抱いている。

そうすると、その価値を証明するために、エピソードが必要になるわけです。

いわば、自分の強さを強調するために、
「オレは、北海道の山奥でヒグマと戦ったことがあるんだぞ、ヤツの強さは、本当にヤバかったんだぜ」
と語るみたいに。

言うまでもなく、その真意は、
「だからオレって強いんだぞ、すごいんだぞ」
ですよね。

なんか、バトル漫画のやられ役みたいですが笑

自分に価値があることに納得していれば、それをわざわざ他人に証明しようと思わないわけです。

その逆で、自分の価値が揺らいでいるからこそ、傷跡を勲章にする必要があるわけです。

だからといって、それが悪いことだというわけではありません。

だって、にんげんだもの笑

私も、さんざん傷跡を勲章にしてきましたし。

それで、自分が価値を認められるならば、別にいいと思うのですよね。

けれども、傷跡を勲章にすることには、大きな問題が一つあります。

それは、「自立」に振れることで、孤立と孤独にならざるをえないことです。

不幸自慢は「自立の砂漠」へと導く

傷跡を勲章にする、あるいは不幸自慢をすること。

そうしたとき、私たちはそのエピソードにこんな意味づけをします。

「私は一人でがんばってきた」

「誰の力も借りず、やってきた」

「どんなに辛くても、弱音を吐かなかった」

「それでも私はめげなかった、負けなかった」

…などなど。

だって、そういう意味づけをしなければ、勲章にならないわけですから。

勲章を示す目的は、自分の価値を証明すること。

そうだとするならば、誰かの力を借りたり、誰かに負けたり、頼ったりしていては、いけないわけです。

しかし、その意味づけは、私たちを「自立」の砂漠に導いていきます。

その砂漠に舞う砂嵐は、こんな声が聞こえてきます。

一人でがんばるべし、誰の力も借りず、頼らず、愚痴をこぼさず、強くあるべし、負けてはならぬ。

決して、がんばることがいけない、強くあることがいけない、と言っているのではありません。

そうしなくてはいけないときも、人生のなかではあるのでしょう。

けれども、ずっとそうしなくてはいけないのは、しんどいものです。

何より、傷跡を勲章にしたり、不幸自慢をすること自体、「私のことを、すごいねって認めてよ」という想いが隠れています。

そう思うこと自体が、すでにずいぶんとその「自立の砂漠」がしんどいことの証明なのでしょう。

2種類の「自立」

さて、ここででてきた「自立」という心理ですが、2種類の「自立」があります。

「自立」自体は、「依存」の次にやってくる心のステージです。

「依存は辛いから、他人に頼るのをやめて、なんでも自分一人でやる」

という心理状態です。

しかし、この「自立」のなかにも2種類の「自立」があります。

一つは、「自立の依存」とよばれる状態。

もう一つは、「自立の自立」とよばれる状態。

「自立の依存」とは、その名の通り、自立して自己を確立しているように見えるけれども、その背後に依存を隠している状態です。

言ってみれば、実はめちゃくちゃ他人のことを気にしている状態といえます。

一方で「自立の自立」とは、そうした最後の依存心すらも切ってしまい、あらゆる感情を感じづらくなっている状態を指します。

感情を切っていることで、まるでロボットのようにルーティンを繰り返したり、あるいは常に何かを演じているような、そんな状態です。

以前にここで書いた「デッドゾーン」に近いのも、「自立の自立」ですね。

 

さて、傷跡を勲章にしてしまう、あるいは不幸自慢をしてしまうとき。

そうしったときには、「自立の依存」の状態にいると考えることができます。

こんなにも大変だった。

こんなにもしんどかった。

でも、乗り越えたんだよ。

それを、誰かに聞いてもらいたい、分かってもらいたい、というニーズが顕在化している状態といえます。

何度も繰り返しになりますが、それが「自立の依存」だからといって、それが悪いわけでは全くありません。

ただ、そうせざるを得なかった、というだけのことなのでしょう。

そして、そこから抜けだすことも、必ずできると私は思います。

では、どうやったらそれを抜けだすことができるのか、次はそれを見てみたいと思います。

3.「不幸自慢」を手放した先の風景

ほんとうに、一人で乗り越えたのだろうか?

「自立の依存」の特徴として、「自立」であるがゆえに、「与える」ことは得意です。

不幸自慢ができるくらい、がんばってきたのでしょうから。

けれども、「自立」であるがゆえに、「受けとる」ことが苦手です。

欲しいんだけれども、受けとれない。

だからこそ、不幸自慢をして、与えてもらおうとする。

そんな心理がはたらきます。

けれども、あなたという存在は、そんなふうに不幸自慢をしないと、誰も与えてくれない存在なのでしょうか?

決して、そうではないと思うのです。

 

傷跡を勲章にしてしまう、あるいは不幸自慢をしてしまう。

その心理の前提として、何がしかの傷ついた経験があるわけです。

ある種のとてもひどい出来事や、自分が望まない現実に遭うと、人はとても傷つきます。

ひどく落ち込み、自暴自棄になったり、あるいは悲嘆に暮れたりするのでしょう。

それが自分の選択ではなかったり、あるいはまったく自分の力で及ばない出来事であった場合、その傷もまた大きく、そして割り切ることが難しくなります。

「私のせいじゃないのに」

「私が悪いわけじゃないのに」

「私が望んだわけでもないのに」

けれども、あなたは自分ごととして、一人がんばるしか選択肢がなかった。

奥歯がきしむほどに、耐えるほかなかった。

自分一人で、なんでもこなしてくしかなかった。

だって、誰も助けてくれなかったから。

だから、一人で乗り越えてきたし、誰の力も借りなかった。

そう思うのは、当たり前のことかもしれません。

けれども、それは本当でしょうか。

 

時計の針を、巻き戻してみます。

あなたがほんとうに辛く、しんどいとき。

部屋の片隅で、ひとり膝を抱えていたとき。

ほんとうに、一人だったのでしょうか。

あなたは、それをほんとうにひとりで乗り越えたのでしょうか。

そのとき、あなたのことを想っていた人は、誰がいますでしょうか。

いない、
という前提で見てしまうと、いないものです。

必ず誰かいる、という前提で、見てみてください。

それは、大切な家族の誰かだったかもしれません。

あるいは、しばらく会っていない友人だったかもしれません。

もしかしたら、いまはもう亡くなってしまったペットかもしれません。

いつも顔を出す、クリーニング店の店員さんかもしれません。

往来ですれ違った誰かが、視線が沈んでいるあなたに祈りをささげてくれたかもしれません。

あなたが、ふっと誰かのことを思いだす瞬間があるように、あなたのことを思いだしてくれた人が、きっといたのでしょう。

 

時計の針を、いまに戻します。

さて、もう一度うかがいます。

あなたがほんとうに辛かったとき、不幸自慢をしたくなるほどにしんどかったとき。

あなたは、ほんとうにひとりだったのでしょうか。

天賦の才は、教えられるもの

「受けとる」ことが、「自立の依存」を癒します。

そして「受けとる」とは、世界とつながりつづけることです。

「受けとる」とは、自分はひとりであるという傲慢の氷を、やさしく溶かしてくれます。

つながろうとしつづける限り、私たちはひとりにはなりません。

与えられたものを受けとろうとするならば、あなたの意識はその相手とつながりつづけます。

物理的な距離やへだたり、肉体的な死があったとしても、そのつながりを妨げることはできません。

「受けとる」ことによって、私たちは世界とつながり、架け橋をかけることができます。

今日の引用文の、本当に素晴らしい一節を、もう一度引用しますね。

人間関係で大事なのは、過去においても、現在でも「傷跡」ではありません。

真実を探すために、役割や義務という犠牲や沈溺を超えて自分を広げつづけ、相手につながることなのです。

そしてその結果、自分自身のなかに天賦の才を見つけることなのです。

つながりつづけるほどに、天賦の才を見つけることができる。

「不幸自慢」を手放した先には、そんな世界が待っているようです。

 

今日は、不幸自慢から見る「自立の依存」の心理と、その抜けだし方についてお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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