「一人になりたがる」傾向の人と、「大切なことは離さない」傾向の人がいます。
そうした傾向は、やもするとコミュニケーション不全や、ボタンのかけ違いを生んでしまいますが、どちらも拒絶されることを強烈に怖れていると見ると、少し違った世界が見えます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.ヒステリックとストイックは、どちらも拒絶されるのをさけるためのコミュニケーションのかたち
「沼」は生来ヒステリックで、「岩」はもともとストイックです。
「岩」に不快な感情があるときはそれを抑圧してしまい、悩まされないですむようにします。
内面に感情をうめこんで、なんとか終わらせようとするのです。
また「沼」はどんなこととでも泣くのに、本当に悩んでいる感情では泣きません。
「沼」も「岩」も、どちらも相手からの承認を求めているのです。
ところがそれは主導権争いや誤解を招くだけです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.354
2.コミュニケーションのかたちは、愛情のかたち
昨日に続いて、今日もパートナーシップのなかでのコミュニケーション論でしょうか。
「岩」と「沼」のタイプについては、こちらの記事をご参照ください。
ごくごく単純化するなら、「岩」がストイック、犠牲的、聞き手で、「沼」がヒステリック、感情的、話し手です。
便宜上、そうした分類をしているだけであって、どちらがいい/悪いという話ではありませんし、他人を断定したり判断したりするためのものではありません。
ここは、何度でも注意が必要なところです。
あくまで、目的は「他人と円滑なコミュニケーションを取ること」です。
コミュニケーションを取る方法
さて、その前提を今日もお伝えした上で、本題です。
私たちは「コミュニケーションの取り方」と聞くと、とかく「話すこと」を思い浮かべます。
もちろん、会話はコミュニケーションにおける、最も大切な方法の一つではあります。
けれども、話すこと、会話することだけが、コミュニケーションの方法ではありません。
身体のしぐさや表情といった、非言語的なものも、コミュニケーションの一部です。
そしてもっと言うならば、「ストイック」や「ヒステリック」といったものも、コミュニケーションを取ろうとする方法の一つである、というのが今日の本題です。
「ストイック」や「ヒステリック」と聞くと、どこか性格の傾向とか、長所/短所でくくられるカテゴリーに入れてしまいがちですが、ある人にとって非常に大切なコミュニケーションの方法といえます。
そして、さらに大切なのは、自分と相手がどういう方法を取ることが多いのかについて知り、理解をしておくことなのでしょう。
そうすることによって、要らぬ誤解や、ボタンのかけ違いを未然に防ぐことができます。
「一人になろうとする」と「大事なことだけを言えない」
今日の引用文では、二つの対照的なコミュニケーションの取り方を示しています。
「岩」の傾向がある人は、とかく自分の内面の感情を感じることが苦手です。
「ストイック」と表現されていますが、自分の内面に何らかの感情の揺れがあったとき、それを抑圧することで何とかやり過ごそうとします。
それゆえに、その内面の揺れを悟られるのを怖れ、一人になりたがります。
そして、その波が過ぎ去ったり、あるいは心の痛みが消えるのを、じっと待ちます。
いわば、「岩」傾向の人は、「一人になる」という形で、コミュニケーションを取るわけです。
はい、私も「岩」傾向が強いので、大いにその傾向があります笑
「岩」傾向の人にとっては、「何を感じている?」「どうしたの?」と聞かれることは、刑事ドラマの取調室で、白色電球のライトを向けられているような、そんな脅迫感があります。
それは、「沼」の傾向があるような、感情豊かな人にとっては、理解しがたいことです。
「は?なんでいつも一人になってんの?ここに私がいるのに、ほんと意味不明」
などと、孤独感を覚えるわけです。
一方、その反対に、「沼」の傾向がある人は、よく話し、よく自分の感情を伝えます。
それは、ときに「ヒステリック」という表現がぴったりとくるくらいに笑
常に自分が何を感じているかに敏感で、それを表現し、周りと共有しようとします。
しかし、「沼」傾向の人は、何でも話しているように見えて、自分の最もコアな感情については、決して話しません。
表層的な感情を共有してはいても、自分の深い内面に抱えている悩みであったり、痛み、葛藤については、語る言葉を持ちません。
それゆえ、「沼」の傾向がある人との関係性が深くなればなるほど、その相手は「重要なことは、何も分からない」と感じます。
「ほんとうにあなたは、どこにいるのだろう」
そんな風に、感じたりもします。
そして、そのコアな感情だけを話してくれないことは、自分が信用されていないのではないか、と感じたりもします。
「大事なことは、何も話してくれていない気がする。自分なんて、どうでもいいんだろう」
というように、無価値感が刺激されるわけです。
こうして、「岩」も「沼」も、どちらも本意ではないのに、誤解が生まれ、ボタンを掛け違えてしまうことがあります。
はい、その誤解は、ほんとうに誰も幸せにならないですよね、ほんと…
3.どちらも、拒絶を怖れている
上にも書いたことですが、大切なのは、コミュニケーションの方法を知ることだといえます。
自分は、どんなふうにコミュニケーションを取ろうとする傾向があるのか。
「沼」なのか、「岩」なのか、あるいはそのどちらとも違うのか。
その上で、どうして自分が、そういった方法でコミュニケーションを取ろうとするのかについて、一度ゆっくりと考えてみることは、非常に価値があることです。
「一人になろうとする」
「大切なことを話さない」
そのどちらの方法も、間違っているわけではありませんし、悪いわけでもありません。
間違っていることがあるとしたら、相手に対して伝えたいことが、きちんと伝わっていないことだけなのでしょう。
「一人になろうとする」も、「大切なことを話さない」も。
どちらも喜んでしているというよりも、「そうせざるを得なかった」という方が、正しいように思うのです。
人は誰だって、周りの人とつながりを感じていたいし、自分の心の深い部分を理解してほしいと望むからです。
けれども、そうはできない内面の事情が、あっただけなのでしょう。
その事情に想いを馳せるということが、自分を、ひいては相手を理解することに、とても有効になります。
もちろん、そうするに至った事情は、一人一人違うのでしょう。
生来的な部分もあるとは思いますが、いろんな経験のなかで、そうせざるを得なくなってしまった。
そう考えるのが、自然なことだと思います。
けれども、どんな事情があったとしても、共通していることが一つあります。
それは、「一人になりたい」も、「大切なことを話さない」も、どちらも「拒絶されることを、極度に怖れている」ということです。
「一人になりたい」という傾向の人は、「あたたかいつながりの中にいたい」と思っています。
けれども、自分がそれを求めて、もし拒絶したらと考えると、想像を絶するような怖さがあります。
「大切なことを話さない」傾向の人は、誰よりも自分の深い内面を、誰かに理解してほしいと願っています。
けれども、もしそれを話してみて、「いや、よくわかんないな」とか、「それは変だよ」と言われたら、ヘビー級ボクサーのフィニッシュブローよりも、ダメージを受けるかもしれません。
それを、怖れています。
もちろん、それは人の持つ弱さであり、エゴの声と見ることもできます。
けれども、その弱さを抱きしめてあげることができるのは、パートナーシップの偉大さでもあるはずです。
その弱さに、想いを馳せること。
それは、一つの理解であり、許しであり、人と人のコミュニケーションの、最も偉大な方法の一つだと思うのです。
今日は、コミュニケーションの方法に寄せて、お伝えしてみました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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