大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

誰かを「非難」したくなる心理と、その緩め方について。

誰かを「非難」するとき、同時に自分のなかに罪悪感を抱えることになり、自分自身を傷つけます。

しかし、そもそも罪悪感があるがゆえに、「非難」したくなるという見方もできます。

「非難」の心理と、その緩め方についてお伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.すべての非難は、自分への非難である

あなたの世界を見わたしてください。

あなたはどこで不満を感じたり裁きたくなりますか。

人を非難したり攻撃したりするところは、あなた自身を攻撃し、非難し、罰しているところなのです。

その部分であなたは罪悪感を感じているのです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.371

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2.誰かを非難するとき、その矛先は自分に向く

今日のテーマは、「非難」でしょうか。

特に心理学で「非難」という用語があるわけではないのですが、「非難」したくなる心理について考えてみます。

「非難」するとき、罪悪感を一緒に抱える

「非難」という語の意味を引くと、「相手の欠点や間違いなど、悪い点を責めたてる」と出てきます。

あの人の振る舞いはよくない、
この社会制度は間違っている、
あの有名人の言動はおかしい…

などなど、誰かや何かを「非難」をしたくなったり、あるいは実際にする場面があります。

しかし、そうした「非難」をしたとしても、一時はスッキリするかもしれませんが、それよりも厄介なものを抱えます。

そう、「罪悪感」です。

誰かを攻撃することは、同時に「罪悪感」を抱えます。

強い力で殴れば殴るほど、その拳を痛めるように。

私たちの心は、誰かを攻撃することからくる「罪悪感」から逃れることは、できません。

「非難」したことと、同じだけの強さで、自分にも刃が向くわけです。

これは、被害者と加害者が同じ地平にいることと、よく似ています。

ひどい仕打ちを受けた被害者は、「こんなにひどい目に遭った」と、加害者を責めます。

その瞬間に、加害者と被害者が入れ替わっていることになります。

加害者が抱える罪悪感と、被害者が抱える無力感を、入れ替えて感じることになるわけです。

そして、次の瞬間には、「それは言い過ぎだ」「そこまで責めなくてもいいだろう」と元・加害者は元・被害者を責めたくなります。

原理的に、そのループは永遠に続きます。

だからといって、非難したり、誰かを責めたりすることが、絶対的に悪いことだとは私は思いません。

誰かを非難したり、あるいは被害者としての立場でいないと、やっていられない事情や状況だって、生きている中ではあります。

それを自分の中だけで消化しようとしても、しきれないことだって、あります。

ただ、その「非難」の矛先が、最終的にどこに向かうのかを知っておくことは、決して無駄なことではないと思います。

そして、それを安全な場所で吐き出すことは、非常に重要なことだとも思います。

その「罪悪感」を感じたいから、「非難」する

「非難」はめぐりめぐって、自分へ「罪悪感」として返ってくる。

それも一つの見方なのですが、ここではもう一つの見方をお伝えしたいと思います。

「罪悪感」とは、言うなれば刺激物です。

それはイヤな感情ではありますが、刺激であるがゆえに、それを求めてしまうこともあります。

たとえばそれは、アルコールなんかが持つ刺激と、似ているかもしれません。

そうすると、とても変な話なのですが、「罪悪感」を感じたいがゆえに、それを感じさせるような方向に自分を持っていく、ということがあります。

因果関係を、逆から見る見方といえます。

「何か許せないことがあって、それを非難する」→「責めたことにより罪悪感を抱える」

というのが、先ほどの見方でした。

けれども、こう見ることもできるわけです。

「そもそも何らかの罪悪感がある」→「それを感じるために、許せないと感じて非難する」

という見方です。

はい、まるで自作自演です。

けれども、この見方をすると、引用文のこの部分は、すごくよくわかるのではないでしょか。

人を非難したり攻撃したりするところは、あなた自身を攻撃し、非難し、罰しているところなのです。

その部分であなたは罪悪感を感じているのです。

「悪口は自己紹介」といわれたりしますが、それはまさにこうした心理を指していたります。

この視点も、「非難」を考えるときに大切な視点です。

その視点からすると、「非難しているものごとや人」をどうこうすることは、あまり意味がありません。

よしんば、そのものごとや人が、思い通りになったとしても、また新しい「非難」の矛先を見つけるだけだからです。

だって、そもそも「罪悪感」という刺激を感じるのが、目的なのですから。

そうすると、まずは「罪悪感」と向き合い、それを癒していく、というアプローチが考えられるわけです。

「罪悪感」を感じたいがゆえに、「非難」をする。

一つの見方として、参考になれば幸いです。

3.感情的理解と、許し

さて、そうした「非難」の心理を癒すのは、やはり「感情的理解」と「許し」です。

「非難」とは、相手の欠点や間違い、ミスなどを責めたてるという意味だ、と先に書きました。

そうした欠点や間違いをあげつらうのではなく、それを理解し、そして許す。

「あの状況だったら、自分も同じ行動をしたかもしれない」

「あの人がそうするんだから、何か事情があるんだろう」

「あのタイミングなら、そうしたのも仕方ないのかもしれない」

そういった態度が、「感情的理解」と呼ばれるものです。

そして、その相手を許すことは、すなわち自分自身を許すことに他なりません。

先に「非難」の根源には、自分自身が感じている「罪悪感」がある書きました。

その「罪悪感」、自分の罪を許すことは、相手を許すことと同義です。

いえ、「そもそも罪なんてなかった」というのが、真実なのかもしれません。

 

はい、ここでも「許し」です。

「また、それか」と思われた方もいらっしゃるかもしれません笑

そうなんです、また「許し」です。

逆にいえば、それくらい私たちは「罪悪感」となかよしで、常にそれを感じているともいえるのかもしれません。

「許し」が進むと、肩の荷が下りたように、心が軽くなります。

そこでは、ある種の自由さと、そして無邪気さ、あるいは童心といったものを、取り戻していくことができます。

その道を進めば進むほど、「非難」という心理からは、遠く離れていくのでしょう。

いつも書いていることですが、「許し」とは相手のためにするのではなく、自分自身の生のためにするものですから。

 

今日は、「非難」の心理についてお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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