他人を攻撃してくる人は、ある意味でとても傷ついた人です。
自分の心身を安全を保ったうえで、その人とつながりをつくるための方法についてお伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.あなたを攻撃してくる人とつながれば、相手は「抵抗」という的を失う
防衛は攻撃を生みだします。
なぜならそれはまるで、相手がつっかかってくるのを挑発しているようなものだからです。
内面の痛みは、また別の痛みを呼びます。
そして内なる暴力性は、意志していてもいなくても外部から暴力を呼び寄せるのです。
ところが攻撃してくる人とつながってしまうと、とたんに相手の攻撃はしぼんでしまうのです。
あなたにむけられた攻撃は、とくにあなたに助けを求めているのです。
その人は心の奥底で、あなたなら自分を助けてくれるかもしれない、と信じているのです。
もちろん、相手はそのことにも抵抗して闘います。
あなたに魅かれることに怒りのような気持すらおぼえます。
ときには、そのアンビバレントな感情が攻撃を生みだすのです。
けれども、あなたが親しさと気づきと、いつくしみをもってこたえてあげれば、闘いを終わらせることができ、新たなレベルに前進することでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.395
2.攻撃とは救いを求める叫びである
今日のテーマは、深いですね。
攻撃してくる人の心理、とでも呼べるのでしょうか。
非常にセンシティブな部分もあるので、慎重に書いてみたいと思います。
まずは、自分の心身を守ること
センシティブな部分を、最初に書いておきたいと思います。
心理学を学んでいくと、時に「世界のすべては私の投影」とか、「私が変われば、相手も変わる」とか、「すべての問題は、自分の内面の問題」といったような言葉に出会うことがあります。
もちろんそれは、一つの真実ではあるのですが、とても重要な前提があります。
それは、自分自身の心身が健やかである、という前提です。
分かりやすいところでいえば、「よく眠れているか」、「ごはんを食べられているか」、「仕事や家事といった日常生活のルーティンをこなせているか」といったところでしょうか。
そうしたところがおびやかされている状態で、「自分の内面」を見ようとしても、なかなか難しいものですし、心理学が自分いじめの材料になってしまうことすらあります。
それは、私にとって本意ではありませんし、この「やさしい心理学」のカテゴリーを書きはじめたときにも、書かせていただきました。
カウンセリング・マインドを、届けたい。 - 大嵜直人のブログ
もちろん、心の器の広い人、あるいは他人の心情を推し量ることのできる人ほどに、分かっていても、それをやってしまうのかもしれないですけれども。
今日のテーマのような、攻撃してくる人について考えるとき。
それは、自分自身の心身が安全だと感じられることが、大前提になると思います。
そう感じられないうちは、休んでいいんです。
逃げていいんです。サボっていいんです。無理しなくていいんです。相手につきあわなくていいんです。
ただただ、安全を感じられるまで、自分自身をいたわることが必要なんだと思います。
その大前提をお伝えした上で、今日のテーマを考えてみたいと思います。
幸せな人は暴言を吐くか?問題
いろんな形で、他人を攻撃する人がいます。
それは、相手を責めたり、暴言を投げつけたり、あるいは暴力を振るう、という形であらわれたりするのでしょう。
そうした「攻撃してくる人」とは、どんな人でしょうか。
暴言を吐いてくるような相手は、どんな状態にあるのでしょうか。
それは、人間の本質とは何か?という問いにも、似ているようにも思います。
少なくとも。
心が満たされて、もうとっても幸せで幸せで仕方がない、という状態では、ないように思います。
「あぁ、なんて気持ちのいい秋の空なんだろう。こんな空を見ていると、ほんとに清々しい気持ちになるなぁ。よし、暴言でも吐いてやるかな」
そんな人は、いないように思うのです。
どうしようもなく痛む心、あるいは、心の傷。
自分ではいかんともしがたい、怒り、悲しみ、寂しさ、やるせなさ。
そうしたものがあるときに、人は誰かを攻撃してしまうのではないでしょうか。
もちろんそれは、褒められたことでもありませんし、だからといってそれが正当化されるわけでもありません。
ただ、「攻撃せざるを得ない」状況にあるのではないか、という視点です。
そして、誰もが他人を攻撃などしたくはないと思うのです。
壁を殴れば自分の拳が傷つくように、攻撃することは自分をも傷つけます。
それでも。
それでも、誰かを攻撃せざるをえない状況にあったとしたら。
そして、その痛みを分かってほしいという想いを表現する方法を、攻撃することしか、できなかったとしたら。
それを、誰に向けようとするのでしょうか。
あなたにむけられた攻撃は、とくにあなたに助けを求めているのです。
その人は心の奥底で、あなたなら自分を助けてくれるかもしれない、と信じているのです。
攻撃とは、救いを求める叫びである。
そのように見ることは、できませんでしょうか。
もちろん、再三の繰り返しになりますが。
その見方は、自分自身の心身の安全を確保した上で、という前提を忘れないでください。
3.つながるとは、想像し共感すること
同じ状況だったら、自分も同じことをするかもしれない
攻撃してくる人とつながるとは、そうした感情的理解を示すことを指します。
その人がしていることや、それに対する正誤善悪の判断からではなく、その人の感じていることや思っていることといった、「感情」をベースに見ていく視点です。
「なぜ、この人はこんなにも攻撃的な物言いをしてくるのだろう」
その相手の感情や、そう感じるにいたった背景、あるいは経験など、そうしたものに想いをめぐらせること。
そして、その相手に理解を示すこと。
それを、「感情的理解」と呼んだりもします。
呼び名はなんでもいいのですが、感覚的には「あぁ、同じ状況だったら、自分も同じことをしたかもしれない」という理解の仕方といえます。
もちろん、それがいいこと/悪いことという判断は、いったんカッコに入れておいて。
相手の表面的な言動ではなく、その奥底にあるもの、目に見えない心の機微に、想いを寄せる、といえるかもしれません。
もちろん、それは直接的に見えるわけではありませんから、自分の想像が違っていることもあるのでしょう。
それが正しい/間違っているということは、大した問題ではないのかもしれません。
そうして、自分の内面に想いを馳せてくれたこと。
そうした「感情的理解」は、つながりを生みます。
そしてつながりがあれば、相手は攻撃をする理由を失います。
分かってほしいから、攻撃していたのだとしたら。
もう攻撃する理由がなくなるのは、当たり前ですよね。
自分と向き合うと、相手のなかにいる傷ついた子どもを見る
話が前後してしまうのですが。
その相手を感情的に理解するためには、やはりまずは自分の内面から、ということになります。
だから、パートナシップでも夫婦問題でも、相手がどうこうではなく、自分を見ましょう、という話がよく出るのですよね。
自分の内面と、自分の感情と向き合っていくと、自分の心の傷に出会います。
自分の心の奥底で、傷ついてぼろぼろで、膝を抱えている、幼い小さな自分。
気づいたときには、愕然とすることすらあります。
「こんなになっていたのに、いままで私は放っておいたのか…」
そんなふうに感じることもあるかもしれません。
けれども、その傷ついた小さな自分を、抱きしめることができると、とても不思議なことが起こりはじめます。
攻撃してくる相手のなかに、その自分と同じような、傷ついた小さな相手を見ることができるようになります。
そして、その小さな相手を、そっと心の中で抱きしめてあげることもできるようになります。
「もう、大丈夫だよ」
「いままで、よくがまんしてきたね」
「なにも、こわくないよ」
その小さな相手に、そんな言葉をかけることができるようにもなっていきます。
そうしてくと、相手の表面的な言動に、振り回されなくなるんですよね。
「そんなにも、傷ついていたんだね」
そう、理解を示すことができるようになります。
「だからといって、そうやって攻撃することは、私は望まないんだ」
そう、伝えることもできるようになります。
それが、「感情的理解」であり、それこそが人の心の葛藤を終わらせるためのキーストーンなのだと思うのです。
今日は、「攻撃をしてくる人」の心理と、その人とつながりをつくるための「感情的理解」についてお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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