大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「与える」ことの本質は自分自身が喜びの中にいることであり、それは自己否定のなかにあっても見いだせる希望である。

「与える」とは、自分自身が喜びの中にいることです。

それは、どんな自己否定の泥沼のなかにあっても、「いまこの瞬間にできることは、何だろう?」と考えることで見いだせる希望でもあります。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.どんな痛みも、与えると癒しが起こる

無感覚な感じがしますか。

つまらないという感じですか。

自己虐待、自意識過剰、恥ずかしさや当惑、心の傷、嫉妬や怖れ、絶望、むなしさ、自分が何の役にも立たないとか、くだらない感じや、喪失感を感じたりしていませんか。

 

どんな感情を味わっていても、それを超えて与え、奉仕することを選択すれば突きぬけてしまいます。

与えることで誕生が起こるのです。

活気のない無気力な状態から脱出して流れに乗り、自意識過剰や自己虐待から抜けだして恩恵のなかに入っていけます。

 

本当に与えるとき、あなたは受けとるようになります。

与えることは世界で最高の癒しをもたらしてくれるもののひとつです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.404

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2.犠牲でも取引でもなく「与える」ということ

今日のテーマは、「与える」でしょうか。

どんな困難な状況でも、「与える」ことを考えることで、その状況を抜けだすことができます。

「こんなにも大きなスイカがあってね!」

「与える」ということは、深い癒しをもたらします。

それは、「与える」相手に対してもそうですし、「与える」自分自身に対してもそうです。

「与えると受けとるは同時に起こる」ともいわれますが、大切な人の喜ぶ顔を想いながらすることは、それだけで喜びをもたらしてくれます。

そこには、「これだけやったら、受けとってくれるだろう」とか、「これだけ与えたから、同じだけ返してくれるはず」といった意識はありません。

それは、犠牲や取引、あるいは期待といった心理がもたらすものです。

ただただ、単純に「与える」こと。

それは、純粋な喜びであり、私たちを自己嫌悪や自己否定の罠から、救い出してくれるものです。

「与える」とは、何か物質的なものだったり、相手にメリットがあることである必要は、必ずしもありません。

もちろん、「どうやったら相手が喜んでくれるだろう?」と考えるのは、大きな喜びです。

けれども、その根底にあるのは、自分自身の感動であり、心の機微です。

「ねえねえ、さっきスーパーに行ったら、こんなにも大きなスイカが売っててね!」

そう言いながら、両の腕で大きな円を描きながら、パートナーに話しかける場面を想像してみてください。

話しかけられた相手は、大きなスイカを想像しながら、その方の感動を受けとることだと思います。

そんな場面は、「与える」ことの本質的な部分を表しているように思うのです。

「与える」ことの本質は、自分が喜びの中にいること

何かをあげる、何かをしてあげる。

もちろん、それも「与える」ことの一つの形です。

けれども、どうしても私たちは、それを形にしないと納得できないことがあります。

そうではないんですよね。

「与える」ことを考えるとき、私たちは相手が喜ぶことをしてあげることだけに、目が向きがちです。

そして、相手が最も喜ぶことを、忘れてしまいがちです。

そう、自分自身が喜びの中にいること、ですよね。

だって、喜んでいる人、幸せそうな人は、それだけで周りの人によい影響を与えるものです。

だからといって、無理やりにポジティブになれ、というわけではありません。

自分の中のネガティブな感情、自己否定や自己嫌悪、あるいはイヤな感情と向き合ったうえで、それでも自分を喜びの中に置く。

それが、「与える」ということの本質なのだと、私は思うのです。

3.与えて、抜ける

そうはいっても、24時間365日、常に喜びの中にいることは、難しいものです。

晴れの日があれば、雨の日もあり、曇りの日があるように。

夏至の長い昼間の時間もあれば、「秋の日は釣瓶落とし」のように夕闇が訪れる時間が早いこともあります。

自分をとてもちっぽけな存在だと感じるとき、
自分をどうしても認められないとき、
自分いじめがやめられないとき、

時にそんなときがあるのも、人間なのでしょう。

それを否定して、無理やりに喜びの中にいよう、とすることはしなくてもいいのだと思います。

悲しいときは悲しい。

悔しいときは悔しい。

怒りたいときは怒る。

しかし、そんなんときにこそ。

「与える」ことで、変わる何かがあります。

なんだか、循環論法のように聞こえるかもしれませんが、それもまた真実です。

はじまりと、終わりは、同じ場所のようです。

どんな暗闇の中にあっても。

大切な人に、どうやったら与えられるだろう、と考えるとき、私たちは自分自身の光を見ます。

この人のために、何ができるだろう、と頭をめぐらすとき、私たちは自分の怖れや不安から抜けだすことができます。

いま、この瞬間にできることは何か、それを考えるとき、私たちは永遠という時間に生きることができます。

すべては、「与える」と決めることから、はじまります。

「与えて、抜ける」

心理学の先人たちは、そんな素敵な言葉を残してくれています。

どんなときにも、どんな状況であっても。

あなたが与えられる何かが、必ずあります。

それを、私は信じています。

 

今日は「与える」ということについて、少し掘り下げて考えてみました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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