心理学を学び、自分と向き合っていくと、「なんで私ばっかりやらないといけないの?」「損な役回りな気がする」と感じてしまうことがあるかもしれません。
そんなときは、「なぜ心理学を学ぶのか?」という原点に立ち返る時期なのかもしれません。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.問題が見えるということは、あなたが何かすることを求められているということ
問題が見えたら、それはあなたの問題なのです。
否定してもここでは役にたちません。
たとえ、それを受け入れても拒絶しても、その問題はあなたに影響をおよぼすからです。
草の中に蛇が見えたまま、それだけ踏みつけてもあなたに影響をおよぼさなくなるかというと、そんなことはありません。
するべき必要のなることが見えたのなら、あなたは行動を起こして状況をよりよくする必要があるのです。
あなたが見たということは、あなたが対処することを求められているのだと気づいてください。
あなたの気づきが広がると、流れも広がります。
助けたいと望んでいる人は、身のまわりのだれかから助けを求められているのが見え、聞こえることでしょう。
そうした声にこたえたいというあなたの心が、前に進めてくれるのです。
そこでは癒しの中心として、すべてをよりよくしていくリーダーとして、自然とあなたの場所が見つかることでしょう。
それをしながら同時に、あなた自身の人生を生きることができるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.409
2.「気づいた人がリーダー」
今日のテーマは、なんでしょうね。
心理学を学ぶなかで陥りやすい、「あるある」な心理に寄せて、書いてみたいと思います。
なんで私ばっかり、こんなことしないといけないの?
多くの人が、家族やパートナーとの関係、あるいは仕事の上での人間関係を良くしようと思い、心理学を学びはじめることと思います。
けれども、そうした目的をもって心理学を学んでいくと、時にこんなことを感じることがあるかもしれません。
「なんで私ばっかり、がんばらないといけないの?」
「なんか、自分はすごく損な役回りのような気がする!」
え、ありません?
私は、すごーくありました笑
だって、そうじゃないですか?
「人間関係」っていうくらいだから、自分と相手の問題であるはずなのに。
心理学を学んだり、カウンセリングを受けたりすると、自分の内面を掘り下げることばかり。
見たくもない過去の痛みや、もう忘れたいイヤな感情と向き合ったり。
「えぇ…なんで私ばっかり、こんなことしなきゃいけないの?」
そう感じるのは、ある意味で当たり前じゃないですか?
私も、そうでした笑
「なんで私ばっかり…もうイヤだぁ…」
ほとほと疲れて、そんなことを強く感じる時期がありました。
そんなとき、あるカウンセラーの方に、その想いをぶつけたことがあります。
「なんで、私ばっかりやらないといけないんですか?」
もういいや。もう限界。もうやってやらない…そんな拗ねた感じでした。
「気づいた人がリーダー」
そのカウンセラーの方は、穏やかに微笑んで、こう仰ってくださいました。
「そうですよね。そう思っちゃいますよね」
しかしその方は、その次に、こんなことを言うのです。
「でもね、問題とは、気づいた人の問題なんです。その他の誰のものでもない。心理学の世界では、気づいた人がリーダーになるんです」
がーーーーーん。
えぇ…なにそれ…
問題に気づいたら、損みたいじゃないですか?
まるで、貧乏くじを引いたみたいで。
そんなんだったら、気づかない方が、得じゃないですか?
だって、何にもせずに、周りがおぜん立てして、いろいろしてくれるわけですから。
気づかずにいた方が、よっぽど得なような気がする。
憤懣やるかたない感じが、私の肚の底で渦巻いていた、そんな気がします。
ずいぶん前のことですので、詳しいやりとりは覚えていないのですが。
そのカウンセリングのなかで、こう言われた気がします。
「おおさきさんは、なぜ心理学を学んで、それを実践しようと思ったのですか?」
…すぐには、答えは出ませんでした。
答えを急かされることも、ありませんでした。
そのカウンセリングの時間のなかでは、答えられなかったと思いますし、そのカウンセラーの方が、答えを授けてくれることも、もちろんありませんでした。
ただ、ぼんやりと。
そのカウンセリングが終わってから、その問いについて、考え続けていたように覚えています。
3.「問題が見える」という才能
とりとめもない昔話になりそうになってきました笑
少し、それらしくまとめようと思います。
「問題が見える」ことは才能である
気づいた人がリーダー。
それを言い換えると、問題が見えるという才能、といえます。
たとえば、ある種の繊細さという才能を持っている方は、周りの人の微細な痛みに気づくことができます。
それは、多くの人が見過ごしてしまうことかもしれません。
けれども、その痛みに気づいてくれる人がいることが、その人にとってどれほどありがたいことか。
「問題が見える」ということは、才能です。
そして、問題が見えたとしたら、それは自分自身の問題であり、ひいては自分のチームの問題です。
パートナーが不義理をするのも、
組織のなかでトラブルを起こす人がいるのも、
境界線を越えて干渉してくる親も、
それを問題と感じるのであれば、自分自身の問題です。
そして、その問題を自分がどう解釈するのか?それに対してどう向き合うのか?が常に求められるのです。
そこに正解はありません。
手を差しのべるのが、常に正しいわけでもありません。
自分が、どうしたいのか。
問われているのは、常にそこです。
もしも、先ほどのように、「どうして自分ばっかり」と感じるようであれば、まずは自分自身をいたわり、休め、ねぎらい、愛することが必要なのでしょう。
すべての問題を、いますぐに解決しようとしなくてもいいんです。
ただ、あなたの目には、その問題が「見える」ということ。
それは、あなたに授けられた才能です。
恩恵は、すべて自分に還ってくる
「なぜ、自分ばっかりやらないといけないの?」
その答えの一つが、そこにあります。
その問題が見えることは、あなたの才能です。
そして、その才能を活かすことで、誰がその恩恵を受けとると思いますか?
そうです。
他の誰でもない、あなた自身です。
人は、自分の才能を活かしているとき、自分らしさを感じ、その生に充実感と喜び、居場所とつながりを感じることができます。
端的な言葉でいえば、「自分らしく生きることができる」といえるでしょうか。
才能は誰かに与えるもの。
そう、言われます。
けれども、その与えた恩恵は、めぐりめぐって、自分自身に還ってきます。
それも、雪だるま式に大きくなって。
「そんなこと、信じられない」と感じますか。
でもね、本当なんです。
「なぜ心理学を学んで、実践しようと思うの?」
いま、私がそう聞かれたら。
「たいせつな人のために。そして、自分のために」
そう答えるかもしれません。
それは、同じコインの裏表なのでしょう。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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