大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

生きるととは、ずっと降り注いでいた愛の大きさに気づく旅。

生きることとは、ずっと降り注いでいた愛の大きさに気づく旅といえます。

その愛の大きさを、私たちはすでに知っています。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.あらゆるもののなかに神を見るとき、愛があなたを「故郷」に連れていく

「故郷」にふれたとき、あなたの生が、いかに大切にされているかがわかることでしょう。

あなたのヴィジョンによってあらゆるもののなかに愛が見え、どれほど愛されているのかを悟るのです。

このことがわかると、そんなに頑張る必要はなくなります。

ただ、自分に受けとらせてあげればよいのですから。

すべてのものや状況のなかに神を見るとき、「天国」の状態である至福とエクスタシーに導かれます。

神はあなたが知っている百万倍もの愛をあなたにそそいでいることを、よろこびのなかで理解するはずです。

神はあらゆるもののなかにあり、その愛であなたをあますところなく包んでいるのです。

これを知ったとき、あなたは自分で自分の邪魔をするのをやめて、痛みや誤った自己概念をすすんで手放すようになります。

あなた自身がその大きな愛に引き寄せられるのを感じ、地上に天国をもたらそうとすることでしょう。

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.439

f:id:kappou_oosaki:20220103095718j:plain

2.生きるとは、愛されていたことに気づく旅

今日は、クリスマスですね。

今日の引用文には、「神さま」というフレーズも出てくるので、クリスマスらしいといえば、そんなテーマなのかもしれません。

あらゆるもののなかに、神を見る

「あらゆるもののなかに、神を見る」

今日のテーマで言われるところのそれは、八百万の神さまと暮らす日本人にとっては、割となじみやすいテーマかもしれません。

山や巨岩を祀ったり、自然に畏敬の念を払うことに、そんなにも違和感がないように思います。

あるいは、仏教のなかにも「一切衆生悉有仏性」という教えがあったりします。

生きとし生けるもの、すべての仏性(仏になることができる資質)は宿っている、という教えです。

世界のあらゆるもののなかに、神さま、神性を見る。

そのことに気づいたとき、私たちはどれだけこの世界に愛されていたかを知ります。

健やかな日も、病める日も、いつ何時も止まらず、私たちの頭上からは愛が降り注がれていた。

そんなことに、気づくことができます。

生きることとは、愛されたことに気づき、それを思い出す旅ともいえます。

それは心理学的に見れば、自分自身のなかに神性を見ることによって、それを周りの世界に「投影」しているともいえます。

自分自身のなかに神性を見ること。

それはすなわち、究極の意味での「自分を愛すること」ともいえます。

蝉の声と、満開の桜の下で

何度かここでも書いた気がしますが、私自身も、何度かそんな経験がありました。

一つは、ある夏の日でした。

両親との死別との絶望的な寂しさのなか、朝の並木を歩いていました。

蝉の声が、私を包んでいました。

その蝉の声のなかに、母の声を聞きました。

ずっと、こんなにも近くで見守ってくれていた。

それが、肌感覚のような実感をともなった瞬間でした。

それはまた、いままで私に与えられてきた愛に、少しだけ気づいた瞬間でした。

もう一つは、カウンセリングの勉強をしていた時期でした。

自分と向き合うのがしんどかった時期でした。

季節は春うらら、近所の桜並木が満開になっていました。

ある朝、その満開の桜並木の下を歩いていました。

それまでずっと下を向いていたのですが、ふと見上げると、満開の桜の花すべてが、私を見て微笑んでいました。

こんなにも、愛されていた。

申し訳なさすら感じるその愛に、また気づいた瞬間でした。

どんなときも、どんな私にも。

天上の愛は、降り注いでいるようです。

それでも、また忘れてしまうんですけれどね笑

でも、また思い出せばいい。

生きるとは、愛されていたことを思い出し続ける旅なのでしょうから。

3.愛された記憶

あらゆるもののなかに、神は宿る。

生きるとは、その愛を思い出す旅。

そうだとしても、私たちのなかのどこかに、その愛の記憶がないと、思い出すことはできません。

私たちは、すでに知っているんです。

その無償の愛を、ずっと与えられてきた愛を。

それが、いつの記憶かは、分からないけれど。

私たちのなかには、愛された記憶が眠っています。

それは、両親から与えらえたものだったのかもしれません。

あるいは、祖父母から絶え間なく与えられたものだったかもしれません。

学校や近所の誰かから、与えられたものだったかもしれません。

一緒に過ごした動物が、それを与えてくれたのかもしれません。

故郷のお山や、川が、降り注いでくれていたものだったのかもしれません。

それは、分かりませんが。

私たちは、それをすでに知っている。

ただ、それを思い出すだけ。

そう考えると、受けとらないといけないとか、こんな私に申し訳ないとか、そんなことを感じることも少なくなってくるのかもしれません。

神はあらゆるもののなかにあり、その愛であなたをあますところなく包んでいるのです。

これを知ったとき、あなたは自分で自分の邪魔をするのをやめて、痛みや誤った自己概念をすすんで手放すようになります。

何度でも、読み返したい一文です。

今日は、心理学というよりは、非常に感覚的なテーマになってしまいました笑

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

〇大嵜直人のカウンセリングの詳細・お申込みはこちらからどうぞ。

※ただいま12月度の個人カウンセリングを募集中です。

〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。