「ごめんなさい」を言いたくなるタイミングで、「ありがとう」を伝えられると、とても心が満たされます。
「感謝」には、私たちの心を癒す、実に偉大な力が宿っているようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.感謝は、比較と羨望から抜けださせてくれる
比較はつねに、現在または将来における痛みをもらたします。
今日、自分はだれかよりもすぐれていると感じられたとしても、自分より上をいく人に出会うのも時間の問題です。
比較をするのは、自分のほうがだれかより少しはすぐれていて、だから少しは愛される価値があると思いたいからです。
けれども、自分にはいま十分に愛される価値があることを知っていれば、比較の必要はなくなります。
羨望という感情は、私たちを動けなくさせてしまいます。
だれかのほうが自分よりもすぐれているのを見て、その人のもっているものがうらやましくてたまらないのです。
でも、人のなかに見えたということは、自分のなかにもあるのです。
そうでなければ、それに気づくはずはなかったのに、そのことには思いいたりません。
感謝し、真価を認めると、相手の才能を楽しめるようになり、羨望を癒して前に進むことができます。
相手の才能を楽しむにつれて、その人の存在そのものを受けとるようになっていきます。
するとあなたの内側のエネルギーが相手の才能と共鳴を起こし、開花しはじめるのです。
あなたが羨望を感じる人に、深い感謝の気持ちから与えていけば、相手のなかに見えるその才能をあなた自身が開花させる、いちばんの早道になります。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.440
2.「感謝」はすべてを癒す
今日のテーマは、「感謝」でしょうか。
いたるところで、その重要性はいわれるところですが、あらためて「感謝」について考えてみたいと思います。
「ありがとう」は受けとる言葉
何か手を貸してもらったとき。
あるいは、好意を示してもらったとき。
たとえば、落としものを拾ってもらったとき。
荷物を運ぶのを手伝ってもらったとき。
靴ひもがほどけてるのを、教えてもらったとき。
そんなとき、「ごめんなさい」と「ありがとう」のどちらを選びますでしょうか?
私は、もう圧倒的に「ごめんなさい」でした。
でした、という過去形にしていますが、いまでもよく出ますし、「いかんいかん、いまのは『ありがとう』だよな」と思ったりします笑
それでも、意識的に「ありがとう」を選ぶようにしています。
「自分が『ごめんなさい』を選ぶ場面で、意識的に『ありがとう』を言ってみましょう」
どこかで聞いたその教訓は、その通りだな、と思うのです。
「ごめんなさい」は、罪悪感や無力感といったものが見え隠れします。
「こんな私に時間を割いてもらって、申し訳ない」
「私が至らないせいで、迷惑をかけているから」
「私なんかに、構ってもらうなんて、めっそうもない」
そんなニュアンスを含んでいるようです。
それだと、相手も「なんだかな…」とか、「逆にこちらが申し訳ない」みたいな感じを受けてしまいます。
けれども、それが「ありがとう」だと違ってきます。
与えてもらった、好意を示してもらったことに、素直に喜びを表し、それを受けとることができます。
たった、五文字。
されど、五文字。
その五文字で、まったく違う世界が見えるのは、やはりそれだけ「感謝」の力は偉大だということなのでしょう。
比較と羨望を癒す、「感謝」の力
そうした「感謝」ですが、その受けとる作用によって、多くの自立の病を癒すことができます。
引用文にもある、比較や羨望といった症状の病ですね。
誰かと比較をしてしまう心理の根底にあるのは、「自分は愛されない」という痛みであり、愛されないことへの怖れです。
「これだけすごくなったら、愛されるだろう」、と。
比較の心理とは、「愛される価値のある人間トーナメント」のようなものかもしれません。
そして、ずっと勝ち続けることはできません。
どんな尺度で見たとしても、遅かれ早かれ、自分よりすぐれている人に出会います。
羨望は、自分の価値を見誤っていることから起こります。
何らかの価値や魅力が見える、ということ。
それはとりもなおさず、自分自身のなかにもその資質がある、ということです。
「投影」の法則ですよね。
私たちは、自分のなかに無いものを、外の世界に見ることはできません。
「あの人は、ほんとに決断力があって、ものごとを自分で動かせる人」
そんな風に見ることができるのは、自分のなかにもその決断力と行動力があるからです。
それを信じていないから、羨望というかたちになってしまうだけです。
「感謝」は、そのどちらも癒すことができます。
「ありがとう」と言って受けとることで、自分が愛されている実感を取り戻すことができます。
「ありがとう」と喜ぶことで、自分にもその資質があることに気づいていくことができます。
「感謝」の力は、かくも偉大なようです。
3.いまこの瞬間の奇跡に気づくこと
「感謝」できない自分を責めない
さて、そんな「感謝」ですが、「わかっていてもできないんだよ…」というときがありますよね。
どんなに「感謝」がすごい力を持っていたとしても、なんだか「感謝」するのに抵抗がでてきたりする。
そんなときに、「感謝できない自分なんて、ほんとダメだ…」というスパイラルに入ってしまったりもします。
はい、よくやっちゃいますよね笑
そんなとき、無理矢理に「感謝」しようとしても、難しいものです。
「やっぱりできない…」と負のスパイラルにはまってしまいます。
そんなときは、まず「あぁ、自分はいま、感謝できないんだなー」と思うだけで、いいんだと思います。
そこに、いいも悪いもない。
ただ、その自分自身の状態に、気づくだけ。
まずは、それでいいんだと思います。
その上で、じゃあどうしたら「感謝」が自然にできるようになるか、考えてみる。
そんなふうに、ゆっくりでいいんだと思います。
いろんなアプローチがありますが、今日は「感じる」という方向でお伝えしたいと思います。
「ありがとう」の反対とは
それは、「ありがとう」の反対を考えると、よくわかります。
「ありがとう」の反対。
「うとがりあ」ではありません笑
「ありがとう」を漢字にすると、「有り難う」になります。
有り難い。つまり、その状態にあることが、めずらしい。
その状態の反対といえば、めずらしくない、当たり前の状態です。
そう、「ありがとう」の反対は、「当たり前」です。
いま、こうあることが「当たり前」であるととらえてしまうこと。
それが、最も「ありがとう」という感謝を遠ざけてしまいます。
言い換えると、無感動や無関心、不感症に陥っている状態のときに、私たちは「当たり前」と感じる=「感謝」から遠ざかるのかもしれません。
この「当たり前」の状態が、人間関係には非常にネガティブに働くのは、ご存知の通りです。
「当たり前じゃん」と思ってしまっていることに、どれだけ相手の想いや愛が詰まっているか。
それを忘れてしまうと、なかなかうまくいかないものです。
「当たり前」の不感症を抜けだすために
じゃあ、その状態を抜け出すのは、どうしたらいいか。
それが、先に書いた「感じる」という方向性です。
いろんなことが、「当たり前」ではないと気づくためには、感じることが大切になります。
いま、自分が感じていることに意識を向けること。
それは、いまこの瞬間の奇跡に気づくことともいえます。
目にするもの、耳にする音、鼻をつく香り、触れているものの手触り、口にするものの味わい…
そうしたものに少しだけでも意識を向けると、「当たり前」が少しずつ「当たり前」でなくなっていきます。
「ある」ことは、「当たり前」ではないんですよね。
「当たり前」が「当たり前」でなくなると、人はそこに「感謝」を抱くことができます。
「あぁ、これは当たり前じゃないんだな。ありがたいな」
それは、ほんの小さなことかもしれません。
朝、目が覚めること。
言葉をかわす、その相手がそこにいること。
暑かったり寒かったり、それを感じる身体があること。
そうした、ほんの小さなことが、奇跡のように思えてきます。
いま、この瞬間が、奇跡のかたまりのように感じることも、あるはずです。
それは言い換えると、自分がいかに愛されているか、それに気づくこととともいえるのでしょう。
いつも、そんな状態でいることは、難しいかもしれません。
けれども、少しでもその状態に近づいたら、比較や羨望なんて、気にならなくなると思いませんか。
そうなんです。
「感謝」は、やっぱり偉大な力を持っているんです。
今日は、「感謝」をテーマに、少しお伝えしてみました。
書いていて、あらためて「ごめんなさいよりも、ありがとうだよなぁ」と、私も感じました。
「ごめんなさい」が出そうなとき、「ありがとう」と言い直したいなぁと思う次第です笑
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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