「犠牲」をしてしまう裏には、大切な何かを失った悲しみがあります。
その悲しみと向き合うことができると、自分を「犠牲」にしたりする行動をやめることができるようになっていきます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.自己犠牲とは、優越感と劣等感をいったりきたり
だれかの犠牲になっていたり、真実ではないのに「世話をする人」の役割を生きているとき、自分が相手よりも優位に立っているように感じられます。
自分のほうが何かしらまさっているような気がするのです。
ところがその奥にはじつは劣等感がひそんでいて、自分を守ってくれるものなしに人に対面する勇気がないのです。
そこで自分をより上に見せるための「役割」が必要になります。
というわけで、犠牲のドラマがはじまるのです。
私たちは何かを失った体験があまりにもつらかったために、そうした体験から自分を遠ざけ、喪失感を味わわなくてすむように、だれかを助けるという役割を身につけました。
ところが、皮肉にも、それによって自分を喪失のまっただなかにくぎづけにしてしまったのです。
つまり、失ったものを嘆き悲しむプロセスを完了していないために、いつまでも喪失から立ち直ることができないでいるのです。
そこでいまも、過去や現在の喪失を感じないですむように自分を守ります。
その結果、自分が人よりもまさっているか、劣っているかという悪循環に身を投じてしまったのです。
劣等感は古い痛みからきており、私たちが受けとるのを妨害し、疲弊させます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.447
2.「犠牲」とハードワーク
今日のテーマは、「犠牲」です。
私も大変お世話になっている、この「犠牲」の心理ですが、少し見てみたいと思います。
ハードワークの夕暮れ
「犠牲」の心理とは、自分ではない誰かのために、自分が幸せではない行動を取ることを指します。
そのため、やっていること自体は、傍から見ると素晴らしいことに見えます。
しかし、それをしている当の本人にとって、充実感や満足感、あるいは喜びといったものは感じづらくなります。
それゆえ、「犠牲」を続けていると、あるとき燃え尽きてしまったり、「もうやりたくない」と続けられなくなったりします。
代表的な「犠牲」の行動のひとつに、ハードワークがあります。
一生懸命に仕事をする。
クライアントや取引先、社内の上司や部下、あるいは家族のために、身を粉にして働く。
それ自体は、とても素晴らしいことです。
しかし、それをしている本人がそう感じられなかったり、空虚な感じがしたり、やってもやっても終わらないと感じたりしていたら、「犠牲」が少し入っているのかもしれません。
「誰かのために」。
その想いは素晴らしいことなのですが、自分自身の心の喜びとは、少し離れてしまっている状態。
それが、「犠牲」といえます。
私も、「犠牲」でハードワークをしていた時代がありました。
「仕事」という刺激物に、依存していたともいえますが、やはり「犠牲」が大きかったように思います。
その時代を振り返ると、どんなに仕事の成果ができても、「足りない、足りない」としか感じませんでした。
それで社内外の人たちが喜んでいたり、認めてくれたとしても。
それを受けとれなかったり、手放しで喜べなかったり。
いつも、空虚な感じがして、渇いていた気がします。
優越感と劣等感のシーソー
そうした「犠牲」の心理の裏側にあるのは、優越感と劣等感のシーソーです。
「犠牲」的な行動をして、誰かのために動いているとき、私たちは優越感に浸ることができます。
それは、「世話をする人」という役割の仮面をかぶるようです。
「私は、役に立っている」
「私は、必要とされている」
「私は、いい人だ」
…はい、先に書いたハードワーク時代の私に、めちゃくちゃ当てはまる心理です。
そうした優越感は、ある種の刺激物のようです。
それが感じられるときは、気分もいいですし、自我を保つことができます。
けれども、それはずっとは続きません。
お酒を飲んでいい気分になっても、時間が経つと酩酊が切れるように。
「犠牲」をやめてしまうと、しらふに戻るように、自分の劣等感という闇が顔を出してきます。
「私は、役に立たない」
「私は、必要とされない」
「私は、足りない人間だ」
この闇は、本当に怖いものです。
だから、自分のことをいったん横に置いて、誰かのために行動せざるを得なくなります。
「犠牲」とは、優越感と劣等感を繰り返すシーソーのようなものといえます。
それはまさに、引用文にあるとおり、ある種の「ドラマ」であり、それゆえにその役を演じることから抜けだすことは難しいものです。
3.「喪失体験」を癒す
さて、こうした「犠牲」がもたらす「世話をする人」「助ける人」「役に立つ人」という役割。
その根底には、「喪失体験」があると引用文ではいいます。
大切な誰かや、得難いなにかを喪った体験。
こんな大切な人から、見捨てられた。
こんな大事な人も、私のもとを離れていった。
そうした想いが、私たちの自己価値を著しく下げることは、容易に想像できるのではないでしょうか。
「喪失体験」の痛みを、感じたくない。
それがゆえに、私たちは「助ける人」のような役割を身につけます。
しかし、いくら「助ける人」の役割を全うしたとしても、「喪失体験」の痛みは消えることはありません。
上に書いたように、優越感と劣等感のシーソーに、揺られるだけです。
「犠牲」をやめるためには、「喪失体験」を癒すことが必要なようです。
それは、引用文にもある通り、喪ったものを嘆き、悲しむというプロセスを完了させるということです。
実際に、私自身も、カウンセリングというものに出会い、両親との別離という「喪失体験」と向き合いはじめたことで、「犠牲」をする度合いは減っていったように思います。
もちろん、「犠牲」をやめよう、と思ってやっていたわけではないのですけれどね。
そして、いまなお「犠牲」をしてしまうときも、まだまだあります。
まだまだ道半ば、です。
ただ、そうした「喪失体験」を癒すことができる、と知ることができたのは、大きいようには思います。
そして、それをこれからも、カウンセリングの中で、お伝えしていきたいと思います。
今日は、「犠牲」というテーマと、その裏側にある喪失体験について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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