誰かと「競争」してしまう裏には、家庭のなかで「競争」の原初体験があるのかもしれません。
そんな「競争」の心理と、そのゆるめ方についてお伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.いまの関係にある競争は、生まれ育った家庭ではじまっている
すべての家庭には、それがどんなに健全であっても微妙な、またはあからさまな競争の要素があります。
それは、とくに何かが不足していたときにあらわれます。
お金が十分ではなかったり、みんなにいきわたるだけの十分な愛情がなかったり、バランスがうまくとれていなくておたがいの存在を認めあうことができなかったりします。
あなたがいま直面している競争は、ずっと前に人格が形成されたときにはじまったことなのです。
あなたの人格は、すべてが比較の感覚を土台にして築かれています。
「私は愛される価値があるのでしょうか?」ということは、つまり「私の方が兄弟や姉妹など、ほかのだれかにくらべて、もう少しは愛される価値があるはずだ」ということになるのです。
こうした競争の要素はあまりにも自分の一部になっていて、まるで肌にピッタリとはりついたボディストッキングのようです。
人格というものは、すべて自分自身の才能という贈り物を捨ててみんなの承認を得よう、帰属感を手に入れようとした痕跡を残しています。
人格とは、ほかの人とのあいだにあるセロファン紙のようなものなので、この包装紙のために何も受けとれないのです。
こうして人格はあなたを自意識過剰にし、人に手をさしのべて、のびのびと並はずれた存在に広がろうとすることを妨げてしまいます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.397
2.家族のなかにおける「競争」
今日のテーマは、「競争」でしょうか。
その「競争」のなかでも、家庭のなかの競争にスポット当てて考えてみたいと思います。
最初の恋敵との「競争」
私たちの周りに、何らかの「競争」が出てくるときがあります。
それは、パートナーとの間にかもしれませんし、友人との間かもしれませんし、あるいは会社の同僚との間に出てくることもあります。
そうした誰かと競ってしまう心理は、「自立」の典型的な症状と見ることができますが、その源流を私たちの家族のなかに見ることもできます。
いまの関係における「競争」は、私たちが生まれ育った家庭のなかの「競争」を再現している、という見方です。
または、その生まれ育った家庭から、ずっと誰かと競っているため、それを周りの世界に「投影」している、ともいえますね。
そうした、家庭のなかにおける「競争」。
もっとも代表的な例が、同性の親との「競争」でしょうか。
男の子なら、父親と。
女の子なら、母親と。
それぞれ、異性の親をめぐって、「競争」の心理がはたらきます。
エディプスコンプレックス、あるいはエレクトラコンプレックスと呼ばれたりするものですね。
その「競争」には、それに勝っても負けても、私たちの心に大きな影響を与えます。
その「競争」に勝ったとき、私たちは罪悪感を抱えます。
「私は罪深く、幸せになってはいけない」という観念ですね。
その「競争」に負けたとき、私たちは無価値感を抱きます。
こちらは「私には愛される価値なんてない」という観念です。
いずれにしても、そうした「競争」は、その後の人間関係にも影響を与えることがあります。
きょうだい間の「競争」
家庭のなかの「競争」は、他にもあります。
きょうだい間における「競争」も、私たちの心に大きな影響を与えます。
きょうだいケンカなどの分かりやすい場合もありますが、「どちらが親から愛されるか競争」をしていたりします。
「私は愛される価値があるのでしょうか?」ということは、つまり「私の方が兄弟や姉妹など、ほかのだれかにくらべて、もう少しは愛される価値があるはずだ」ということになるのです。
まさに、今日の引用文の通りですよね。
生まれてくる順番、性別、年齢差、両親の性格や祖父母との関係など、実にさまざまな要因が、きょうだいの間に「競争」をつくります。
きょうだい間における関係性が、私たちの仕事や恋愛に大きく影響します。
長子、中間子、末っ子…実にさまざまなポジションで、私たちは「競争」をしているものです。
そしてその「競争」を、家族以外の場所で再現していたりします。
このあたり、きょうだいの心理については、私がカウンセリングを学んだ根本裕幸師匠の「兄弟姉妹の心理学 弟のいる姉はなぜ幸せになれないのか」(WAVE出版)に詳しいので、よろしければご参照ください。
以前に書評も書かせていただきました↓
書評:根本裕幸さん著「兄弟姉妹の心理学 弟がいる姉はなぜ幸せになれないのか」に寄せて
3.その手にあるものを感じる
こうした家庭における「競争」。
それは、何かが「足りない」と感じたときに生じるものです。
すべての家庭には、それがどんなに健全であっても微妙な、またはあからさまな競争の要素があります。
それは、とくに何かが不足していたときにあらわれます。
それは、安全な場所かもしれません。
もしかしたら、お金かもしれません。
あるいは、愛情かもしれません。
それが「足りない」と感じたとき、私たちは「自分だけのものにしなくては」と、周りと競いはじめます。
しかし、その「足りない」というのは、ほんとうでしょうか。
私たちには、ずっと与えられてきたものがあります。
それがあったからこそ、私たちは今日まで生きてこられたのでしょう。
それは、日々降り注ぐ陽の光かもしれません。
それは、今日この日の夕餉かもしれません。
それは、気づかないでいた誰かの愛情かもしれません。
月並みな表現ですが、「足りない」と感じるのは、私たちの心の内にある欠乏感の投影といえます。
そうであるならば。
「足りない」という幻想を手放すことができれば、私たちは「競争」の螺旋から降りられるのではないでしょうか。
いま、自分の手の中にあるもの。
それを感じてみると、少しずつ意識が変わっていくことが感じられます。
そうすると、自分が競っていた相手が成功すればするほど、自分もまた成功するのだと信じられるようになります。
それはまた、自分の大切な人を、深く愛することができるようになります。
今日は、家庭のなかにおける「競争」について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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