自立的な人ほど、期待や取引、犠牲といった行動で、こっそりと相手から「奪おう」としがちです。
けれども、「奪う」という行為は、結局その分失うことになります。
素直に「ください」と伝えた方が、よほどうまくいくことが多いものです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.何かをうばえば、その分、失うことになる
何かをうばうほどむなしい気持ちになり、手に入れるほど不安を感じるものです。
これは興味深い現象です。
逆説的ですが、うばえばうばった分、満足できなくなります。
なぜなら、うばうことによって受けとれなくなり、怖れを強化し、それゆえに失うという、ひとつの力学がはたらいてしまうからです。
そうして自己イメージを自分で引きさげ、最終的に得られるはずだったいくばくかの満足感を失うはめになるのです。
基本的に、うばうことには何かにふけることと同じ力学がはたらきます。
耽溺によっても満足感を得ることはできません。
リフレッシュも気分一新もできなければ、ふれあうこともできません。
私たちが「自立」の状態にあるとき、自分がうばっていることを隠そうとします。
まるで精神的な禁欲生活者のように、ほんのわずかしか必要としていないようなふりをしていながら、じつはこっそりとうばいとるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.454
2.「奪う人(taker)」は、結局損をする
今日のテーマは、「奪う」でしょうか。
「奪う」という行為はしていないにしても、心理的にしてしまうことは、「自立」的な人に多いものです。
「与える人(giver)」と「奪う人(taker)」
「与える人(giver、ギバー)」と「奪う人(taker、テイカー)」という言葉があります。
読んで字のごとく、与えようとする人と、奪おうとする人を指します。
よくビジネスの世界は「ギブアンドテイク」だと言われますが、ほんとうのところ「ギブアンドギブ」が求められる、とはよく言われることです。
最終的には、与える人=ギバーのもとに、人も資本も才能も集まってくる。
見返りなんて期待せずに、全身全霊で自分自身を与えなさい、というわけですね。
パートナーシップでも、同じようなことがいえます。
関係性が深くなればなるほど、私たちは相手に対して見返りを期待したり、取引をしようとしてしまうものです。
「私がこれだけやったから、あなたも同じだけちょうだいね」
そんなことを思ってしまうことは、誰にでもあるものです。
けれども、そうした取引がうまくいくかというと、なかなか難しいものです。
「取引している」という意識が相手にはないわけですから、同じだけ返そうとも思わないわけです。
勝手にハードルを設置して、それを飛ばないと勝手に怒るという、自作自演のような状態になってしまいがちです。
そうではなくて、与えたいから与える、与えること自体に喜びを感じているといった与え方をしていくと、関係性はよくなる方向にしかいかないものです。
もちろん、そんな風に与えたくなるように、自分を整えるのが、なかなか難しいのですけれどね。
「奪う」ことの2つの怖ろしさ
さて、「奪う」ことの怖ろしさは、2つあります。
一つは、セルフイメージを下げてしまうこと。
「私は、奪わないと与えてもらえない、価値のない人間だ」
「奪う」という行為は、そういったイメージを、自分自身に植えつけていることになります。
これは、本当にセルフイメージを下げ、自分自身の本来の無限の価値や、与えられているたくさんの愛を受けとれなくしてしまいます。
さらに、引用文にもある通り、「奪う」ことで手に入れたものは、失うことが怖くなります。
がめつく自分の持ち分を主張して、「足りない、足りない。もっと、もっと」となってしまいます。
そしてもう一つは、言うまでもなく、罪悪感です。
罪悪感の厄介さは、もう何度となく、ここで書いてきました。
お腹いっぱいかもしれません笑
たとえ、欲しいものが手に入ったとしても、「奪った」という罪悪感によって、まったく満足できなくなります。
それどころか、相手を傷つけたという罪悪感が、私たちの心にずーんと居座り、楽しめなくなります。
「自己価値を下げる」、「罪悪感を抱く」。
「奪う」ことによって出てくる、二つの問題。
いずれも、厄介極まりないものです。
「奪う」というのは、かくも怖ろしく、イヤなものです。
隠れた「奪う」行為
何かを与えることのできる人は、ますますそれが豊かに回っていく。
一方で、もし現実世界で相手の了承を得ずに「奪う」行為(窃盗、強盗など)をしたら、厳罰を受けたりします。
与える人ほど富み、奪うほどに損をする。
それは、私たちの倫理的な感覚に、近いのではないでしょうか。
しかし、今日のテーマでいうところの「奪う」とは、そうした直接的な行為に限りません。
表面上は「与えよう」と見えても、心理的には「奪おう」としていることは、よくあります。
先に挙げた、期待や取引も、心理的に相手から奪おうとする(=テイカー的な)行為だといえます。
「ここまでは、やってくれるはず」
「これだけ与えたから、今度はちょうだいね」
そんな意識もまた、「奪う」行為と見ることができます。
そうすると、めぐりめぐって結局は自分が損をしてしまう。
それは、なかなか自分では気づきづらいものです。
「奪う」ということを考えるときに、押さえておきたいポイントの一つです。
3.自立的な人はこっそりと「奪う」
自立的な人の、切ない要求の仕方
「奪う」ことは、結局は損をする。
そして、「奪う」ことのなかには、こっそりと相手から奪おうとする行為もある。
そして、そうした行為は、自立的な人に多いものです。
はい、お恥ずかしながら、私も思い当たる節がめちゃくちゃあります笑
人が「依存」から「自立」にいたるとき。
私たちは、自分の欲求を素直に表現しなくなります。
「これ、ちょうだい」と素直に要求するかわりに、ツンとすまして、「だいじょうぶ、私は別にそれをほしくないもん」という顔をします。
それは、「ちょうだい」と伝えても与えてもらえなかったり、無視されたりといった、「依存」時代に深く傷ついた経験がゆえに、そうするわけです。
しかし、その欲求自体がなくなったわけではありません。
それを素直に要求するかわりに、期待をしたり、取引をしたり、はたまた犠牲をしたりして、もらおうとします。
それは傍から見ると、いじらしいともいえる、切ない要求の仕方のようです。
当事者になると、そんなかわいらしい感じはしないのですけれども笑
蛇足ですが、これは本当に私もよくやってしまう「奪い方」です。
ツンと澄まし顔をして、「いらないよ」としておきながら、裏でバリバリと取引だ、期待だ、犠牲だと、ドロドロした動きをしてしまう。
周りから見れば、「ほしくてたまらなそうなのに、なぜこの人はそう言わないのだろう?」と不思議に見えるかもしれませんし、「あぁ、もう、めんどくさいなぁ…」と思われているかと思います。
それで、何かをもらうたびに、先に書いたようにセルフイメージを下げてしまっていたら、世話もないわけです。
はい、なので今日のテーマは激烈に刺さっております笑
「奪う」のではなく、「ください」と言える素直さを
私のことはさておき。
「隠れて奪おうとする」ことを手放していくためのヒントを、最後にお伝えしていきたいと思います。
心理的に見れば、「自立」を手放して、「相互依存」にいたることが、求められます。
「なんでも自分の力だけで頑張る」から、「自分でできることは自分で、できないことは他人を頼る」という心理です。
そこにいたるヒントは、「依存」時代の恩恵にあります。
それは、無邪気さ、素直さ、従順さ、かわいらしさといったものです。
要は、「これ、ください!」と素直に伝えることです。
はい、自立的な人にとっては、めちゃくちゃ抵抗感が出るやつです笑
「そんなことするくらいなら、要らない!自分で手に入れた方がいい!」と思われるかもしれません。
それが、「自立」の罠です。
「ください」と素直に伝えられることは、依存的に見えるかもしれませんが、それは相手に「与える機会を与えてあげる」と見ることもできます。
男性性が強い人にとっては、「こうしてほしい」と具体的に言ってもらった方が、よっぽどありがたいものです。
素直に相手に頼ること。
それは、パートナーシップを劇的に良化させる秘訣のひとつでもあります。
黙って期待したり、無理に犠牲したり、要らぬ取引なんかをして、こっそりと「奪おう」とするよりは、素直に「ください」と相手に頼ってみる方が、よっぽど簡単に自分の欲しいものが手に入るのかもしれません。
今日は、「奪う」という心理について、深めてみました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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