身体における「痛覚」が、危険を避けるために非常に大切な機能であるように、心の「痛み」もまた、大切なものです。
心の「痛み」とは、本来の自分に気づかせてくれる大切なもの、とも言えます。
そこに目を向ければこそ、癒しはじめることができます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.痛みとは、「それはまちがいですよ」という合図
子供のころ、まちがって火のなかに指をつっこんでしまったら、すぐに手をひっこめて、もう二度と同じことはするまい、と学んだことでしょう。
ところが感情面では、私たちはくりかえし自分を火中につっこみつづけているのに、いまだにそこに注意を向ける必要があることを学んでいないのです。
私たちに「どうもこれはまちがっているらしい」と教えてくれるのが、「痛み」という合図なのです。
痛みに注意を向けてあげれば、そこから癒しはじめていくことができます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.89
2.「痛み」とは合図である
今日のテーマは「痛み」になるでしょうか。
結構、シンプルなお話になるのかもしれません。
身体と心、それぞれの「痛み」
身体的な「痛み」と、心の内面の「痛み」は、どうも違うようです。
身体的な「痛み」は、外傷であれば目視すれば分かりますし、骨折などでしたら検査をすれば分かります。
包丁で指を切ったときは、血が流れたりして、視覚的にも分かりやすいですよね。
しかし、心の「痛み」は、なかなか分かりづらいものです。
外から見ても、そこに傷や痛みがあるのかは分からない上に、当の本人すら気づいていない場合もあります。
「痛み」に目を向けないようにして、日々をやり過ごしてしまっている場合もあるでしょう。
「痛み」を感じることは、誰にとっても嫌なことですよね。
そんな「痛み」ですから、それを心の奥底にしまい込んで、あたかも「最初からなかったふり」をしたりします。
意識的に見ないようにしている場合もあれば、ほとんど無意識的にしている場合もあるでしょう。
合図を、無視しないこと
しかし、身体における「痛覚」が、危険を避けるために非常に大切な機能であるように、心の「痛み」もまた、大切なものです。
身体の「痛み」を無視してしまったら、怪我がますますひどくなります。
しかし私たちは、心の世界では、そうしたことをよくやってしまうようです。
今日の引用文にある通り、「くりかえし火中に手をつっこみつづける」ようなことを、よくやってしまいます。
ええ、書きながら思い当たる節が、ありありと出てきますね笑
身体の「痛み」が、「ここに異常がありますよ、処置してください」という合図であるように、心の痛みもまた、大切なことを教えてくれます。
それは引用文にある通り、「それはまちがいですよ」という合図なのでしょう。
それを無視すると、ますますひどい「痛み」がやってきたりします。
これは、「問題」に対する考え方と、似ているのかもしれません。
要は、自分の本質と離れてしまった分、問題や「痛み」を抱えるわけです。
そして、本質と離れるほどに、大きな問題や「痛み」となってやってきます。
言い換えると、問題や「痛み」とは、本来の自分に気づかせてくれる、大切な贈り物、とも言えます。
まあ、だからといって、喜んで受け取ろうと思いませんが笑
そこじゃないですよ、癒すときがきましたよ。
「痛み」とは、そうしたことを教えてくれる、合図のようです。
3.心が痛いときは、器を広げているとき
「痛み」に目を向ければ、癒すことができる
心が痛いとき。
何らかの癒すべき感情が、そこにあるのでしょう。
けれども、私も含めて多くの人は、「痛み」と向き合うことを怖れます。
喜んで虫歯の治療に行こうという人がいないように笑、それは自然な反応なのでしょう。
しかし、歯の「痛み」を無視して歯医者に行かなければ、虫歯は治ることはありません。
同じように、心の「痛み」に目を向ければこそ、それを癒すこともできるのでしょう。
「痛み」はつらいものですが、癒しはそこからはじまります。
大切なのは、「痛み」があったとしても、癒すことができる、ということなのかもしれません。
ほっぺたをつねると、痛いけれど広がっている
ある方が、仰っておられました。
ほっぺたをつねると、痛いでしょ?
でも、広がっているじゃない?
心も、それと同じなのよ。
心が痛いときは、その器を広げているときなの。
とても単純なたとえですが、真理だと感じます。
心が痛いときは、心の器が広がっているとき。
真理とは、単純なものなのかもしれません。
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