「癒着」しているとき、お互いがお互いに依存してしまいます。
そのため、私たちは「癒着」していると、与えることもできないし、受けとることもできません。
相手に与えるために、自分に立ち戻ることの大切さについて、お伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.だれかと癒着しているのは、人生から引きこもっていること
だれかと癒着していると、自分の中心からはずれて、自分にとって真実ではない目標へと近づきます。
相手が人生の目標になり、真実ではないかたちで、自分自身よりも相手のことを大事にしてしまいます。
自分の中心からはずれて人生から引き下がると、与えたり受け取ったりすることがとてもむずかしくなります。
一見とても気前がいいように見えても、実際は相手のために自分を捨てて犠牲になってしまいます。
どれほどまわりの人々に与えつくしたところで、本当はより大きな仕事を達成できるように、まずは自分自身に与える必要があるのです。
癒着しているとき、あなたは真の助け手ではありません。
それはあなたが引きこもってしまっているからです。
でもあなたの意志とコミットメントがあれば、人生で満たしてくれる本当の目的へと導かれることでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.168
2.与えられない、受けとれない「癒着」
今日のテーマも、「癒着」です。
5日続けて「癒着」をテーマにして、さすがにおなかいっぱいでしょうか笑
今日が「癒着」の最後になるかと思います。
「癒着」の心理のおさらい
心理学においての「癒着」は、他人との心理的な距離が、近くなり過ぎている状態を指します。
お互いにぴたっとくっついて、何をするにも一緒で、何をしていても相手のことが気になる状態。
それゆえに、相手の感情や言動に、とても敏感になり、自分がなくなります。
「癒着」していると、主語が自分なのか、相手なのかが、あいまいになったりもします。
また、昨日の記事で、お互いがお互いに「依存」しあう、「共依存」の状態でもある、と書きました。
私たちの心の成長は、「依存」から「自立」、そして「相互依存」へと進みます。
しかし、誰かと「癒着」してしまうと、その相手とお互いに「依存」しあってしまうわけですね。
そうなると、自分も相手も前に進むのが怖くなります。
お互いが、お互いに出し抜かれないように、監視しているような状態。
これが、「癒着」の息苦しさであり、関係性が硬直するゆえんです。
さて、そうなると、愛が受けとれない、という問題が出てきます。
「依存」は与えられないし、受けとれない
「依存」とは、「自分は何もできない」と思い込んでいる状態です。
その無価値観、無力感という感情を強く感じ、相手の動向に振り回される状態ともいえます。
新しい職場に入ったとき、自分の無力さを感じながら、周りの人や上司の言動が気になったりすることがあります。
その状態では、自分から「与える」ということは、非常に難しいですよね。
自分の居場所がなくて、どこか、いること自体が迷惑のような。
そんな風に感じてしまう方は、いらっしゃるのではないでしょうか。
もちろん、そうでない人もいますが、敏感な人、やさしい人ほど、そう感じてしまいます。
そして、その「依存」の状態は、「受けとりたいけれど、受けとれない」ということがよく起こります。
「こんな自分に、申し訳ない」
「忙しいのに、迷惑ですよね」
「ここまでしてもらって、なんだか悪い気がする」
なにかをしてもらったとしても、そんな風に感じてしまいます。
「依存」とは、与えられないし、受けとりたいんだけれども受けとれない状態。
さて、「癒着」していると、お互いがお互いに「依存」してしまう、と書きました。
ということは、お互いが与えることもできないし、かといって受けとることもできない。
相手を想っていても、その愛を伝えることも、相手からの愛を受けとることも、できない状態。
「依存」の苦しさの一つは、愛が受けとれない/与えられない、ということもありそうです。
3.あなたの素晴らしい愛のために
共倒れに、ならないために
「癒着」しているときは、与えられないし、受けとれない。
癒着しているとき、あなたは真の助け手ではありません。
この引用文の一文が、そのことをよく表しているように思います。
「癒着」した関係では、相手に手を差し伸べているようで、実は自分が相手の沼に嵌り行ってしまうことが、よくあります。
蟻地獄に嵌った人を助けようとして、自分自身も蟻地獄に落ちてしまうような。
レスキュー活動にしても、さまざまな救助・援助活動にしても。
まずは、自分自身が安全であることが、大切なことです。
それは、身体的な意味でも、経済的な意味でも、そうなのでしょう。
それが、「自立」と言えます。
「自分のために」、相手を助けようとしない。
それは、助けようとした人も、その相手も、共倒れになってしまうことがあります。
まずは、自分を満たすこと、自分に与えること、自分の足でしっかりと立つこと。
それが、まず何よりも大切なことです。
自分を満たす、自分を生きる、ということ
自分を満たす、自分に与える。
それは、相手の動向が気になって、つい目をそらしてきた、自分の内なる声を、聞くことからはじまるのでしょう。
それは、ほんとうに小さな、微かな声かもしれません。
けれども、あなたには、必ず聞こえるはずです。
それは、ほんとうに、バカげたことに聞こえるかもしれません。
ただ、なんとなく。
白湯を、飲みたい。
そんな、小さなことかもしれません。
けれども、それがどんな小さな願いであれ、どんなおかしく見える願いであれ。
それを叶えたときに、私たちの心は、豊かに満たされます。
ほんとなんですよ。
その小さな小さな充足を重ねていくと、自分と相手との境界線を引くことができます。
自分を満たす、自分に与える。
自分の声を、聞く。
そして、その積み重ねが、ライフワークや、使命、お役目といった、大きなものへと導いてくれると思うのです。
でもあなたの意志とコミットメントがあれば、人生で満たしてくれる本当の目的へと導かれることでしょう。
引用文に、ある通りですよね。
これまでの記事で何度も書きましたが、「癒着」そのものが悪いことでもありません。
人の心の機微を、深く察することのできる人が、通る道なのかもしれません。
もし、これを読んでいるあなたが、いま「癒着」で苦しいのであれば。
まずは、「癒着」するまで、愛情深いことを、受け入れましょう。
そして、その先に、あなたのライフワークが待っていることを、信じてあげてくださいね。
5回にわたって、「癒着」について書いてきました。
「癒着」の心理、そしてそれが悪いことでもなく、人の心を察することができるからこそ、なりやすいのだということ。
その才能に、目を向ける、ということ。
ひいては、自分の声に耳を傾け、自分の中心に戻る、ということ。
繰り返しになってしまいますが、それをお伝えできましたら、幸いです。
今日も、ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
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