大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

誰かを許すことができたとき、自分自身もまた許すことができる。

「許し」と聞くと、どこか崇高なもの、清廉潔白なもの、というイメージを持たれるかもしれません。

しかし、心理学での「許し」とは、あるものや人への見方を変えることを指します。

そんな「許し」のプロセスと大きな恩恵について、お伝えします。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.だれかの無実を認めるたびに、自分自身を解放する

人に「罪のなさ」を見たとき、あなた自身の隠された罪悪感が解放されます。

あなたが罪の意識をもっていると、自分に何の価値も感じられず、自分自身を犠牲にして罰しつづけてしまいます。

ほかの人のなかに「罪」を見るときは、じつはあなた自身をも罰しているのです。

 

誤りを超えて、その人の潔白さを見ることができたとき、あなたも自由になります。

その人は与えられた状況や自分自身のストーリーのなかで、できるかぎりのことをしていることに気づいてください。

不満を言うよりも、援助し、教えてあげるほうがずっとよい結果を生むでしょう。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.171

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2.罪悪感、投影、そして許し

今日のテーマは、深いですね。

「罪悪感」、「投影」、「許し」…心理学でいうところのオールスターが揃っているようです。

「許し」は道徳か?

心理学を学んでいると、「お母さんを、許しましょう」というフレーズを聞くことがあります。

カウンセリングでお話を伺っていると、「やっぱり、許さないといけないんですかね…」とため息まじりに仰られる方もいます。

心理学を学んで、ご自身と向き合ってこられたんだなぁ、すごいなぁ、と私は思うわけです。

もちろん、それは一つの見方として正しいとは思うのですが、あくまでそれは「結論」であり、全体の一部でしかないとも感じます。

どうしても、「(誰かを)許しましょう」というフレーズは、道徳的なニュアンスを含んで聞こえてしまいます。

道徳が悪いわけではないのですが、どこかルールやモラル的に聞こえてしまう。

そして、それができないと、自分がおかしいのではないか、と責めてしまう。

それは、悲しいことです。

何度もお伝えしてきましたが、心理学を自分責めの道具にしないことが、大事です。

少し話が逸れてしまいました。

「許し」とは、そうしたものとは全く違うものです。

道徳的に、ルール的に、モラルとして、「相手を許しましょう」というわけではありません。

「許し」とは、ただただ、自分のためにするものです

心理学は、自分自身のために

「許し」とは、相手のためにすることでも、自分を犠牲にすることでも、聖人君子になるためでもありません。

一昨日の「癒着」の記事でも、書きました。

自分自身のために、するものです。

ここは、何度でも立ち返っていい、大切なことだと思います。

あの嫌な人、罪深く見える人、許せない人。

その人たちを、「なぜ」許そう、というのか。

それは、自分自身を自由にするためです。

自分自身を、罪悪感から解放するためです。

自分自身を生き辛くしている鎖を、ほどくためです。

自分自身の生を、豊かにするためです。

誰のためでもありません。

自分自身のために、許す。

誰かのために、するわけではありません。

これは「許し」に限ったことではないですが、心理学を学ぶことは、自分自身の生を豊かにするためにするものです

ことあるごとに、振り返ってみたい原則です。

もちろん、愛情深く、人の気持ちを推し量れる人ほど、周りを優先してしまうのですけれどね。

3.投影と、許し

自分に対してしていることを、他人に映し出す

自分自身のために学ぶ、許す。

そうした大原則を見た上で、ようやく今日のテーマを考えてみます。

前置きが、長いですよね笑

私たちは、自分自身が持っているものの見方、考え方、感情といったものを、外の世界に映し出します。

これを「投影」といいます。

たとえば、自分の周りに「この人は悪い人だ」、「まちがっている」、「罪深い人だ」と感じる人がいたとします。

「投影」の考えを逆から見ると、周りの人にそう感じるのなら、自分のことをそう考えている、と見ることができます。

わたし自身を、「この悪くて、間違っている、とんでもない罪人」と見ているからこそ、それを周りに映し出している

周りの人の嫌な部分、間違っている部分、悪い部分、罪深い部分は、自分自身のものでもあるのです。

はい、いやですねぇ…ほんと泣

繰り返しになりますが、それを自分責めに使わないようにしてくださいね。

「ほほー、そうなんだなぁ」

くらいで、ちょうどいいと思います。

相手を許すとき、自分もまた許される

相手のいやな部分、間違っている部分、罪深い部分は、自分の投影。

そこで終わってしまったら、救いようがないですよね。

どんよりして、今日の記事を終わらないといけなくなっちゃいます笑

しかし、そこに希望をくれるのが、「許し」です。

人に「罪のなさ」を見たとき、あなた自身の隠された罪悪感が解放されます。

周りの人を許せたとき、私たちはそれを自分自身にも「投影」します。

逆もまた真で、自分自身を許せるようになると、周りに対しても寛容になります。

しかし、私たちが最も許しがたい人物ランキングで、ぶっちぎりの一位なのが、「自分自身」です。

ええ、ぶっちぎりです。

だから、周りを許した方が、簡単なのでしょう。

「相手を許すことは、誰のためでもなくて、自分自身のため」なわけです。

4.「許し」は感情的な理解から

さて、そうした理屈はわかっても、実際に「許す」となると、難しいものです。

許しの道は、一生続くと言われます。

「0か、1か」というものでもなく、行きつ戻りつ、行ったり来たりしながら、許しは進んでいくものです。

大切なのは、焦らないこと、なのでしょう。

その前提の上で、聞いていただければ幸いです。

「許し」の一歩目は、感情的な理解です。

その人は与えられた状況や自分自身のストーリーのなかで、できるかぎりのことをしていることに気づいてください。

たとえば、「制限速度を守りましょう」という規則を、破った人がいたとします。

いってみれば、悪い罪人ですよね。

これを、「規則を守らないのは、よくない!悪いことだ!」とするのは、ある意味で簡単です。

そうではなく、「なぜ、あの人は速度を出し過ぎたのだろう?」と、相手の身になって考えてみること。

大切な人が倒れて、病院に駆けつける道中だったのかもしれない。

とても傷つくことがって、自暴自棄になっていたのかもしれない。

相手の感情に、想いを寄せること。

「許し」は、そんなところから、はじまります。

「もし同じ状況だったら、自分も同じように、速度を出していたのかもしれない」

ほんの少しでも、そう思えたなら。

ずいぶんと、楽になります。

相手を責めることの罪悪感から、自分自身を解放してくれます。

「許し」と聞くと、崇高なものだったり、清廉潔白な心、というイメージがあるかもしれません。

それも「許し」の一つなのかもしれませんが、心理学でいうところの「許し」とは、見方を変えることといえます。

それは、人に与えられた本当に素晴らしい力でもあります。

また言葉を変えれば、それを「癒し」と呼ぶこともできるのでしょう。

少し、「許し」についてのイメージを持っていただけましたら、幸いです。

 

さて、今日は「投影」と「許し」という壮大なテーマについて考えてみました。

相手を許すのは、自分を自由にするため。

相手を許すことは、自分を許すという最大の恩恵を与えてくれる。

かといって、すぐにできなかったとしても、自分を責めないでくださいね。

今日の記事を読んでくださっているあなたは、もう「許し」への道を歩み始めているのですから。

焦らなくても、大丈夫です。

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