今日は、私も慢性的に抱える問題である、「犠牲」についてです。
「犠牲」とは、誰かのために、自分が幸せではない行動を取ることを指します。
やっていることは素晴らしくても、そこに喜びはなく、やがて疲弊してしまいます。
そこから主体的に抜け出すための、祝福と祈りについてもお伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.祝福は、犠牲の解毒剤
自分を犠牲にしているとき、私たちは自分に何の価値も認めていません。
自分が相手と対等であるとはとても感じられないので、自分自身を捨て、相手のためだけに行動してしまうのです。
祝福は犠牲の反対です。
それは相手や、その状況がうまくいくようにという願いなのです。
「私には力があります。この状況で私にできることがあります。自分が犠牲するのではなく、祝福を与えます。それによってこの状況がよくなることでしょう」
あなたのエネルギーと愛、そして「よくなりますように」という願いを贈ることによって、自分を捨てなければならなかった犠牲的な状況を、あなたが変えるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.35
2.本人に充実感や喜びがない「犠牲」
今日のテーマは、私が大好きなテーマです。
というか、私の慢性的な問題の一つが、この「犠牲」の問題だからです。
イヤですねぇ・・・ほんと笑
犠牲バントはチームの勝利の為だけれども
心理学においての「犠牲」とは、誰かのために、自分が幸せではない行動を取ることを指します。
この「誰かのために」行動することは、一般的に使われる「犠牲」の意味と同じですが、「自分が幸せではない」という点がポイントです。
たとえば、犠牲を使った言葉で「犠牲バント」があります。
野球において、自分がアウトになってランナーを進める戦術ですね。
ヒットやホームランを打ちたいのが人情ですが、チームの勝利のために自分の打席を犠牲にする戦術です。
その先には、チームの勝利があります。
その大きな喜びのために、自分がアウトになる、という犠牲ですね。
しかしながら、時に人は「その先に喜びや充実感の無い」犠牲をしてしまうことがあります。
どうして、そんなことをしてしまうのでしょうか。
犠牲は、低すぎる自己価値ゆえに
引用文の言葉の通り、犠牲は「自分には何の価値もない」と感じているときに起こります。
自分には何もないと感じるがゆえに、相手のために過剰に何かをしてあげることで、帳尻を合わせようとするのです。
客観的に見て、やっていることは素晴らしいものでも、本人には充実感や喜びはありません。
それどころか、「まだまだ足りない」と感じてしまいます。
はい。書いていて、遠い目になってきました・・・思い当たる節があり過ぎます笑
自分に価値が感じられないと、どこか犠牲的な行動をして相手に尽くさないと、居心地が悪いんですよね、ほんと。
そして、自分の価値のバケツ?に穴が開いているので、どれだけ犠牲をしても、その穴から水が漏れだしてしまって、相手との天秤は永遠に釣り合わない。
そしてそして、犠牲をして疲れ果てた自分を見てしまうと、相手は申し訳なさを感じてしまいます。
すると、自分の尽くした行為を受けとることが難しくなってしまう。
「相手のために」と思って始めた行為が、誰も幸せにしない。
いやはや、犠牲とは、かくも恐ろしいものです。
祝福、あるいは祈り
そうした犠牲的な状況を、「祝福」は変えることができると本書は言います。
祝福とは、祈り、と言い換えてもいいのかもしれません。
自己価値が認められないと、何か具体的な行動をしたり、あるいは望んだ結果を出さないと、相手のためではないと思いこんでしまいます。
はい、私もずっとそう思ってきました。
けれど、それはある意味で傲慢なのですよね。
相手が望んでいる結果と思いこんでいるだけで、実はそれは自分が望んでいるだけなのかもしれないですし。
それよりも、「よくなりますように」と相手に祈ること。
それだけでも、大きな愛とエネルギーを相手に贈ることになります。
どんな状況においても、自分にはできることが、ある。
そう信じることは、犠牲をやめ、真に相手にとっての喜びが何であるかを考えることができるようになります。
引用文の通り、「犠牲的な状況を、あなたが変える」ことができます。
祝福、あるいは祈りとは、ある意味で主体性を取り戻す行為なのかもしれません。
3.犠牲のなかに光と才能を見る
自己価値が低いことは、悪いことではない
そんな「犠牲」について、ここまでお伝えしてきました。
書いていて、自己紹介のように感じたのは、気のせいでしょうか笑
ただ、犠牲の原因が自己価値の低さだとして、それにもまた原因があるのだと思います。
私の場合は、両親との突然の死別でした。
大切な人との突然の別れは、アイデンティティに大きな影響を与えます。
また、家族という居場所を失ったことで、自分が根無し草のように感じました。
自己価値が低くならざるをえなかった、というだけのことでしょう。
それがいいも悪いも、ありません。
ただ、そうだったとしか言いようがないのでしょう。
「ただ、在る」
とは、私の好きな言葉の一つです。
その言葉の通り、ただ、そう在っただけなのでしょう。
犠牲できるという才能を伝えたい
私のカウンセリングでは、「それは犠牲だからよくない!」などと言うことは一切ありません。
犠牲の原因が自己価値の低さだとしても、それが悪いなどとお伝えすることもありません。
私自身がそうだったように、ただ、そう在っただけなのですから。
そうせざるを得なかった状況に、心を寄せたいと思っています。
そして、もしも似たようなお話を、お聞かせいただいたとしたら。
そんな状況でも、あなたは自分の身を粉にして、犠牲にして、まわりの大切な人のために生きてきたんですね、と。
それは誰にでもできることでは、ないですよ。
自分の身を守るよりも、その傷ついた身を捧げてでも、その大切な人のために生きてきたんですよね。
それが、どれだけ愛が深いことなのか。
そんな風に、お伝えするかと思います。
犠牲があったとしても。
そこに宿る光と才能を、私のカウンセリングの中ではお伝えしていきます。
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