「ルール」は観念やビリーフなどともよばれ、自分が傷つかないようにするためのものです。
それは、傷ついた経験のほかに、「罪悪感」からつくられることがあります。
それゆえに、「ルール」と向き合うことは、自分の大切なものや、アイデンティティを教えてくれるようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.すべてのルールには、罪悪感が隠れている
もしあなたに罪悪感がなければ、「ルール」をつくる必要はなく、どんなことにもすすんで柔軟な姿勢で対処しようとするはずです。
あなたがルールを決めたのは、ある時点で自分が過ちをおかしてしまったと信じこみ、もう二度とくりかえすまいと思ったからです。
しかし、しばしば「ルール」そのものが問題になってしまいます。
俊敏な反応を妨げ、その状況で何が必要なのかを察知することをはばみます。
さらに罪悪感のために、どんな場合でも、自分のルールにこだわり、型どおりの儀礼的な行動をとってしまうのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.189
2.「罪悪感」がつくるもの
今日のテーマは、「罪悪感がつくるルール」です。
ありとあらゆる問題のデパート、総合商社たる「罪悪感」。
ここでも何度も扱ってきましたが、「ルール」とからめて、お伝えしたいと思います。
観念、ビリーフ、思い込み、あるいはルール
私たちの意識のなかには、ある種の「自分ルール」があります。
「靴は左足から履く」というものから、「人に迷惑をかけてはいけない」といったものまで、実にさまざまな規則を、私たちは無数に持っています。
これは意識的にしているものから、無意識的にしているものまで、じつにさまざまです。
これを観念、ビリーフ、思い込み、ルールと呼んだりします。
今日の記事では、「ルール」で統一しますね。
この「ルール」は、もともとは、私たち自身の防衛機能としてつくられたものが多いものです。
ある種の傷ついた体験があり、もう二度とそんな体験をしたくない、という想いから、それを避けるためのルールを自分のなかにつくるわけです。
たとえば、おおさきくんには、密かに想いを寄せていた人がいたとします。
あるとき、おおさきくんは、その想いを、親しい友人に打ち明けたとします。
しかしその想いは、いつしか周りの皆が知ることになり、あまつさえ、おおさきくんを冷やかす人が出てきたりします。
「お前、あの子のことが好きなんだってな」
そんなひどく傷つく経験をしたとしたら。
おおさきくんは、どんなルールを持つと思われますか。
そうですよね。
「自分の想いを、誰にも言ってはいけない」というルールを、持つのではないでしょうか。
もう二度と、そんな辛い経験をしたくないために。
さて、そのルールを持っていると、自分の想いをひやかされることはないかもしれませんが、自分の心の内を話すことができないことになります。
自分のことを話せないのは、しんどいことですよね。
このように、「ルール」とは、自分を守るためのものとしてつくられますが、自分を縛ってしまったりすることもあるわけです。
「罪悪感」は自分を牢獄に閉じこめる
さて、今日の引用文では、こうした「ルール」が、「罪悪感」によってもつくられる、といいます。
あなたがルールを決めたのは、ある時点で自分が過ちをおかしてしまったと信じこみ、もう二度とくりかえすまいと思ったからです。
「罪悪感」とは、過ちをおかした、誰かを傷つけてしまった、と感じることによって、自分を罰しようとする感情のことです。
この「罪悪感」が、「ルール」をつくることがある。
問題のデパート、総合商社たる「罪悪感」、まさにその面目躍如ですね笑
でも、考えてみれば、当たり前のことかもしれません。
「ルール」とは、言い換えれば、自分を閉じ込めておく檻ともいえます。
これが、「罪悪感」と相性がいいわけです。
だって、罪人を閉じ込めておくのに、「檻」があるのは好都合ですから。
先のおおさきくんの例でいえば、自分がひやかされて傷ついたことで、「ルール」をつくったと見ることもできますが、相手の人に申し訳なかった、という「罪悪感」が「ルール」をつくった、と見ることもできるわけです。
…いまさらですが、おおさきくんは、あくまで架空の人物です笑
「罪悪感」がつくった「ルール」は、幸せから遠ざけるように自分を仕向けます。
これが、徐々に徐々に、心を蝕んでいくわけですね。
そして、しまいには「ルール」が重しとなってしまいます。
しかし、しばしば「ルール」そのものが問題になってしまいます。
本来は、自分自身を守るためにつくった「ルール」。
それは、いつしか自分を縛る鎖にもなってしまうようです。
3.「罪悪感」も「ルール」も、愛ゆえに
「ルール」も「罪悪感」も、気づくのが難しいから
さて、こうした「ルール」ですが、厄介なのは「それに気づきづらい」ことです。
無意識的に、そうした「ルール」を持っていることなど、本当にいくらでもあるわけです。
これは、「罪悪感」にとても似ている性質です。
「ルール」というと、明文化されている感じがしますが、「観念」というと、なかなか気づきづらさが伝わるかもしれません。
「ルール」も「罪悪感」も、気づかないうちに、自分をがんじがらめにしてしまう。
逆にいえば、「気づいたら終わり」とも言えるわけです。
「ルール」が分かってさえいれば、それを守るのか、守らないのか、「選ぶ」ことができるわけですから。
では、どうしたら「ルール」に気づくことができるのか。
一つの方法として、定義をたくさん挙げてみる方法があります。
たとえば、「お金」というものに対しての、自分の「ルール」を知りたいのならば。
「お金とは、〇〇だ」
「お金とは、〇〇しなければならない」
この〇〇に入る言葉を、できるだけたくさん挙げてみるわけです。
これは、頭の中でやるよりも、紙に書いた方が断然おすすめです。
「お金とは、あるとうれしいものだ」
「お金とは、ないと困るものだ」
「お金とは、稼がなくてはいけないものだ」
「お金とは、時に人を狂わせるものだ」
…などなど、たくさん挙げてみると、自分の「ルール」の傾向が見えてきます。
たくさん挙げてみればみるほど、自分では思いもよらなかった「ルール」が見つかることがあるので、おすすめです。
どうして、その「ルール」を持つようになったのだろう?
そうして自分の「ルール」を言語化することができたら。
考えてみていただきたい問いが、あります。
「どうして、そのルールを持つようになったのだろうか?」
これは、かなり自分の中のコアな部分に触れる問いになりえます。
その「ルール」を持つようになったのは、傷ついた経験、あるいは耐えられない罪悪感からです。
それは、あまり見たくない部分かもしれませんが、そこにこそ、自分の大切なもの、アイデンティティが眠っている可能性があります。
だって、誰しもが自分の大切なことでしか、傷つかないわけです。
私がジャニーズのコンサートのチケット抽選に落選しても、別に傷つかないですが、ダービーの日の東京競馬場の入場抽選に落選したら、すごく傷つくわけです笑
誰しもが、自分の愛する人に対してでしか、罪悪感は抱かないわけです。
その人のことが大切で、愛を差し向けていたからこそ、罪悪感を抱く。
だから、「ルール」と向き合うことは、自分が何を大切にしているか、というコアな部分を教えてくれます。
それは、自分にとってあまりにも当たり前だからこそ、いつもは意識できないものです。
けれど、それを意識することができると、すごく自分の中にカチッとした芯が通るものです。
自分は、これが大切だったのだ。
自分は、こういう人間だったのだ。
「ルール」と「罪悪感」が教えてくれる、恩恵です。
今日は、「罪悪感がつくるルール」についてお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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