何かを喪失した体験があると、人は「役割」に生きるようになります。
それは依存や自立、偽りの助け人というような、いろんな「役割」があり、それは生きることを重苦しくさせます。
しかしどんな喪失であれ、感情を感じつくし、傷と痛みを受容することで、「役割」をおろすことができます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.「役割」とは、まだ弔っていない喪失の隠れみの
あなたは、とても困っているのに、何ひとつ受けとれないという「依存」の役割を生きているかもしれません。
もしくは「自立」した役割を生きていて、過去に失ったことなどどうでもいいかのようにふるまっているかもしれません(本当は「どうでもいい」ということじたい、じつは「どうでもよくない」ということを示しているのですが)。
または「世話する人」の役割を生き、みんなの痛みを救おうとするのに自分の痛みはいつも隠したままという、偽りの助け人をやっているかもしれません。
これではほかの人を助ける力をみずから制限していることになります。
すべての感情を経験して、自分のなかの喪失に立ち向かわないかぎり、新しく始めることはできません。
そして、なぜか「役割」というものはどれも、前に進む助けにはならないのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.198
2.「役割」がうまれる理由
今日のテーマは、「役割」です。
以前にも「役割」で記事を書きましたが、また違った面から見てみたいと思います。
依存も自立も「役割」である
「役割」と聞くと、いろんなイメージが浮かぶかと思います。
あなたは、どんな「役割」をもっていますでしょうか。
母親、息子、姉、あるいはビジネスパーソンといった「役割」。
あるいは、いつも話を聞く側だったり、いつもいい人を演じる「役割」をもっているかもしれません。
いろんな「役割」がありますが、今日の引用文では、依存と自立も、「役割」のひとつである、と書いています。
依存と自立については、これまで何度も触れてきました。
自分では何もできないので、相手に振り回される「依存」。
自分ですべてやろうとして、人に頼るのが難しい「自立」。
人の心は、依存から自立へと、成長していきます。
しかし、その先に「自分ができることは自分でする、自分でできないことは他人に頼る」という「相互依存」の世界があります。
その過程である依存と自立は、いずれも「役割」である、とするのが、今日のテーマです。
「依存」の状態にいると、何もできないのに、周りの好意を受けとることができません。
相手に対しての要求が、とめどなくあふれてくるからです。
「自立」にいると、過去の傷や痛みを、まるでなかったことのようにして、生きようとします。
なんでも自分でやろうとする裏側に、とても傷ついた私がいるのに。
「依存」も「自立」も、本来の自分から離れているという意味で、「役割」と見ることができるのでしょう。
「偽りの助け人」という役割
依存や自立のほかにも、「偽りの助け人」という「役割」もあります。
ある種の喪失を経験した人が、よく演じる「役割」かもしれません。
ご多聞にもれず、私自身も、大好きな「役割」です笑
「世話する人」の役割を生き、みんなの痛みを救おうとするのに自分の痛みはいつも隠したままという、偽りの助け人をやっているかもしれません。
これではほかの人を助ける力をみずから制限していることになります。
この部分なんて、ほんと刺さりますよねぇ…
自分の痛みを隠して、誰かを助けることなど、できません。
けれども、傷ついていて、周りの人を慮ることができる人ほど、自分の傷を隠して、周りの世話を焼こうとします。
「偽りの助け人」、まさにその表現の通りですよね。
それは、悪いことでもなんでもないのですけれどね。
ただ、それはなかなか長続きしません。
助けようとする相手、そして自分と、共倒れになってしまう場合が多いわけです。
誰かを助けようとするならば、まず自分を助ける。
自分を癒していくうちに、相手も勝手に癒されていきます。
誰かを助ける、大原則ですね。
3.喪失体験を「弔う」とは
何らかの喪失が、「役割」を生みだす
さて、そうした「役割」は、なんらかの「喪失」が生みだす、といいます。
以前に「役割」について触れた記事では、「役割とは、もう死んでしまいたい、という辛い感情が生む」という表現がありました。
それに似ているのかもしれません。
「役割とは、まだ弔っていない喪失の隠れみの」
タイトルにある、この表現が秀逸ですよね。
私たちは、生きる中で何らかの喪失体験をします。
それは、親友の転校かもしれませんし、ペットとの死別かもしれませんし、両親の離婚かもしれませんし、あるいはずっと抱いていた夢や希望の挫折かもしれません。
何らかを、失ったと感じる体験。
そうした体験を「弔う」ことができないと、自分の痛みを隠すために「役割」が必要になってくるようです。
痛みを隠すために、「役割」を演じる。
私自身も、肉親との死別を、文字通り「弔う」ことができず、一人で生きる「自立」という「役割」を演じてきました。
それは、仕方ないといえば、仕方ないんですけれどね。
「弔う」とは、感じつくし、受容すること
「弔う」とは、その悲しみや痛みを十分に感じつくし、その体験を自分のなかの一つの血肉、アイデンティティとして昇華することを指します。
喪失体験の痛みや悲しみ、寂しさといったものが、消えることはありません。
どれだけ感じても、また折にふれて、現れてくるものです。
それがなかったら、どんなによかったかと、いつも夢想するかもしれません。
けれども、どうしようもないけれども、仕方ないんだけれど、それがあるからこそ、自分なんだ、というところに至るのが、「弔う」こということなのだと、私は感じます。
その喪失体験がなかったら、どんなによかったかと、いつも妄想していた。
けれども、それがもしなかったら、もう自分ではない、そうでしかありえない、と受容することと表現できるかもしれません。
あの体験がなかったら、どんなによかったか。
けれども、あの体験がなかったら、私は私ではなくなってしまう。
とても悲しくて、傷つく体験だったけれども。
それが「ある」自分でしか、自分はありえないんだ、と。
それはもはや、自分のアイデンティティなんだ、と。
感じつくし、あきらめ、受容する。
「もし、過去に戻れて、その体験をなかったことにできるとしたら?」
そう問われたとしても、
「いえ、これは『わたしの』人生ですから、お断りします」
と答えることができるのでしょう。
もちろん、とても難しいことですけれどね。
それは、喪失体験にかぎったことではありません。
容姿、生まれ、学力、体力、年齢、性格…すべてのことに、いえるのではないでしょうか。
いろんな不満はあるけれど…
これが、わたし。
これ以外に、わたしはありえないんだ。
そうあきらめ、受け入れることが、「役割」の殻をやぶってくれるのでしょう。
これは、心理学にかぎらず、多くの場面で語られることが多い真実のように、私には感じられるのです。
今日は、喪失体験が生む「役割」から、自分を受け入れることについて、考えてみました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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