「与えたものが、返ってくる」という法則があります。
実にシンプルな法則ですが、これを突きつめていくと、「ほしいものこそ、与えられるもの」と考えることもできます。
「ほしい」と感じるものとは、その人の才能の一端を示してくれるようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.人に称賛を与えただけ、人からの称賛を受けとれる
人に称賛や友情、愛情を与えた分だけ、同じように贈り物が返ってきます。
つまり、人に承認を与えることで、あなたが承認されるのです。
贈り物であるあなたの才能を人と分かちあうとき、あなたが才能に満ちているのが感じられます。
あなたが人生で受けとる称賛の大きさは、どのくらい周囲の人々を判断していないかに比例します。
つまり、人々に対して自然に与えている度合いを反映しているのです。
あなたが与えるにつれて、人はおのずと称賛や承認、そして愛情でこたえてくれます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.213
2.与えたものが、返ってくる
今日のテーマも、昨日に続いて人生訓に近いテーマといえそうです。
「与えたものが、返ってくる」という、実にシンプルな真理です。
単純だけれども、深い真理
「与えたものが、返ってくる」。
いろんなところで、それに似た言葉、格言、ことわざを目にします。
「因果応報」
「Heaven helps those who help themselves.(天は自らを助くる者を助く)」
「与えたものだけ、受け取れる」
「天に向かって唾を吐く」
「放てば満てり」
…などなど、それは時代や国を超えて語られる、人の世の真実のようです。
「情けは人の為ならず」、というのもありますね。
他人のためにするのではなく、自分のためにするのが、「情け」である。
なぜなら、それはめぐりめぐって、自分にかえってくるから。
だから、情けは人のためにするものではない、と。
人に称賛や友情、愛情を与えた分だけ、同じように贈り物が返ってきます。
まさに、この通りですよね。
「与えたもの」とは、「形」ではない
しかし、とても難しいのは、「もらうために、与えよう」としてしまう、ということです。
ええ、誰でもそうです、私もよくやって
これは、「取引」とよばれる心理になってしまいます。
これをしてあげるから、ちゃんとお返ししてね、というやつです。
お返しを前提とした贈り物って、なんか気持ち悪いですよね。
「これをあげるから、同じだけのものを返してね」
「お返しを期待しているよ」
なんて言われてしまうと、なかなか素直に喜べないのが、人情なのではないでしょうか。
要は、「与えたもの」って、「形」じゃないんです。
そこに乗せた心であり、愛情であり、称賛であり、感謝といったものなわけです。
もちろん、時には、その逆に憎悪だったり、批判だったり、怒りだったりもします。
こじれたパートナーシップや夫婦関係を修復しようとするときに、「パートナーに感謝をしましょう」とか、「自分から愛情を送りましょう」とよくいわれます。
それを、「形」から入ると、なかなかうまくいかないわけです。
「なんでこっちが感謝せなあかんの?」
「まずはそっちが謝るのが先だろ!」
とか、そういったものが混じってしまうと、難しいですよね。
何より、長続きしないですし。
だから、そういうときは、「形」だけ与えるよりも、自分自身の内面と向き合う方が、大切なことが多いようです。
3.「ほしい」と思うものこそ、与えられる
「無い」から「ほしい」、という勘違い
「与えたものが、返ってくる」
それが真実であるとするなら、自分のほしいものは、積極的に与えたほうがよさそうです。
だって、それを「ほしい」と思ったら、まずは与えればいいのですから。
こう書くと、少し「取引」のニュアンスを含んでしまうので、微妙なのですが、そのまま続けさせてください。
「与えたものが、返ってくる」。
そうであるならば、「ほしい」ものは、先に与えればいい。
それは愛情に満ちた言葉かもしれませんし、やわらかなスキンシップかもしれませんし、安心感のなかでくつろげる時間なのかもしれません。
でも、人は「ほしい」ものが手に入らないから、時に苦しむわけですよね。
それが無いのに、どうやって先に与えるの?と思われたりするかもしれません。
なぜか。
それは、「ほしい」と思ったものが、自分のなかに無いものだと思っているから。
だから、与えるなんて、とんでもない、と思ってしまう。
これが、大きな勘違いなわけです。
何か「ほしい」と感じるのならば、そのものの価値を知っているからこそ、なんです。
それが、なんであるか、よく知っているからこそ、なんです。
そして、それをよく知っているということは、それが自分の中にあるからこそ、なんです。
自分のなかにあるからこそ、それが当たり前のように感じるわけです。
これを、「才能」とよびます。
え?と思われましたでしょうか。
何言ってんの?と思われたでしょうか。
私は、大真面目に書いていますよ笑
「ほしい」と思えることこそ才能であり、それは「与えられる」ものである
私たちは、どうも「才能」と聞くと、誰かよりも優れていたり、勝っているところをイメージするかもしれません。
もちろん、それはそれで「才能」といえます。
けれども、私が最も偉大だと思う「才能」は、自分では当たり前だと思っている部分に宿るものです。
呼吸をするように、当たり前に思っているもの。
それがあって当たり前だと思うから、「ほしい」と思うもの。
それこそが、その人のアイデンティティであり、「才能」であると私は思います。
あまりにも当たり前になってしまっているがゆえに、本人は気づかなかったり、逆にそのことで頭を悩ませている場合が多くあります。
カウンセリングなんかでも、そんなことをお伝えすることが、よくあります。
あまりにも当たり前のことって、なかなか価値を感じづらいですよね。
たとえば、数十億年前に、海に生まれた生命にとっては。
あの海面の上に顔を出し、胸いっぱいに空気を吸うことは、夢のようなことだったかもしれません。
そんな魚か、アメーバのことなんか知らないよ、って言われるかもしれません笑
しかし、当たり前のことって、ほんとに価値を感じづらいんですよね。
たとえば、両親にいつも怒られて、罵倒されて育った、という方がいたとします。
それゆえに、いつも怒られないか不安を感じている、安心感がほしい、と。
けれど、それは安心感がなんであるか、知っているんですよね。
そして、それを知っているがゆえに、その安心感を、できるだけ周りの人に与えようとさえ、しているわけです。
それが、どれくらい尊いことか。
あなたはずっと、その宝石のような贈り物を、ずっと周りの方に送ってこられたんですね、と私ならお伝えしたいと思います。
もちろん、「は?」とキョトンとされるかもしれませんけれど笑
けれど、何度でもお伝えしたいと思います。
「ほしい」と思えることは、あなたの才能です。
その価値を、その素晴らしさを、深く知っているから。
そしてそれは、あなたが与えられるものでもあります。
その当たり前の「才能」を、周りの大切な人と分かち合うとき。
人は、とても満ち足りた気持ちになります。
贈り物であるあなたの才能を人と分かちあうとき、あなたが才能に満ちているのが感じられます。
まさに、引用文の通りだと思います。
今日は、「与えたものが返ってくる」という真理から、才能のお話をさせていただきました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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