相手やできごと、さらには自分自身を見るとき。
必要なのは、なんらかの基準による判断ではなくて、感情的理解だったりします。
1.行動原理と愛
先日の記事では、行動原理と愛、というテーマでお伝えしました。
そうせざるを得なかった事情は、いつも愛からきている。 - 大嵜直人のブログ
もとは、感情を溜め込んでしまうこの弊害、というテーマからのつながりでした。
感情を溜め込んでしまうと、自分に余裕がなくなり、それゆえに周りの人との関係性を損なうことが多くなります。
言ってみれば、「百害あって一利なし」なのが感情を溜め込むことなのですが、それをしてしまうことがあるのも、私たちだったりします。
翌日しんどいと分かっていても、寝る前の動画をやめられなかったり。
もう十分に酔っているのに、もう一杯がやめられなかったり。
そうしてしまうのが、私たちです笑
ただ、そうしたことをしてしまう裏には、何がしかの事情があるものです。
寝る前の動画サーフィンをやめられなかったり、限度を越して飲まざるを得なかったり、あるいは、感情を溜め込まなくてはいけなかったり。
その事情にいいも悪いもないのです。
ただ、その事情には、その人の行動原理というか、その人が大切にしているものが、詰まっているはずなんですよね。
そして、すべての行動原理は、愛からきているものでもあります。
だとしたら、感情を溜め込んでしまうことも、別に責められることでもないのでしょう。
先日の記事では、そんなテーマをお伝えしました。
2.必要なのは、判断ではなく感情的理解
ここは、結構コアなテーマですので、今日ももう少し掘り下げてみたいと思います。
誰でも、感情を溜め込んでしまうこともあれば、しない方がいいと分かっていても、してしまうこともある。
そうしたとき、私たちはそこに何らかの判断を入れてしまうものです。
「あれは、よくない」
「感情を溜め込むのは、問題だ」
みたいな感じですよね。
でも、法律やゲームの勝ち負けならまだはっきりするのかもしれませんが、心の問題って、とっても曖昧なんですよね。
白か黒か、それをはっきりさせることができないし、そう判断することに、あまり意味がないことって、すごくたくさんあるんです。
白寄りのグレーとか、黒っぽい灰色とか、そんなことばかりです。
そこに、「この基準でいえば、黒だ!」と判断しても、しんどくなるだけです。
他の人が、別の基準を持って「白だ」としたら、そこに衝突や葛藤しか生まないですから。
必要なのは、判断ではなく、寄り添うことです。
なぜ、そうせざるを得なかったのか。
そうしなくてはならなかったのは、どうしてなのか。
そのとき、どんな心情だったのだろうか。
自分がその状況に置かれていたとしたら、どんなことを感じるだろうか。
言ってみれば、「感情的に理解すること」が、判断よりも大切なことなのでしょう。
3.感情的理解が進むと、世界が違って見える
この「感情的に理解すること」ができると、ものごとの見え方が変わってきます。
できごとや、相手の言動、外の世界で起こることは、変わりません。
でも、自分がそこから何を受けとるかが、変わっていくのです。
なぜか。
そこに、安心感が芽生えるからです。
昨日の記事で、すべての人の行動原理は、愛からきている、と書きました。
感情的に理解しようとすると、自分の愛とつながらざるを得ません。
そして、そことつながることができると、周りの言動やできごとに、左右されなくなるんですよね。
いや、ぶれることは、ぶれるんです。
たとえば、パートナーが不機嫌だったり、カチンとくるようなことを言ってきたりしたら、そりゃあ、感情が揺れることもあるのでしょう。
上司の理不尽な仕事の進め方に、キレそうになることだって、あるかもしれません。
そこで全くぶれないのは、悟った人か仙人みたいな人なのでしょう笑
けれど、そのぶれた後でも、「なぜ、その人はそうせざるを得なかったのか」に目を向けることができると、少し見え方が変わってくるのです。
「あぁ、そんなにしんどいことがあったんだな」とか。
「その状況だったら、焦っても仕方ないよね」とか。
そうした目線で見ることができるようになったりします。
この最終形は、自分に対して、その目線を持つことです。
「そりゃあ、感情を溜め込んでしまうのも、しょうがないよね」
そう思うことができたのなら、もうずいぶんと、自分を許し、愛せるようになってきているのでしょう。

今日は、必要なのは、判断ではなく感情的理解、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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