生きてくれさえすれば、それでいい。
そこにいてくれさえすれば、もうそれ以上は何もない。
そんな愛のかたちの言葉を、時に聞くことがあります。
ある意味で、最も尊い愛のかたちように感じられます。
無償の愛を与えている、とも言えますし、ある意味でこれ以上なく受け取っているようにも見えるからです。
生きていてくれさえすれば。
その愛のかたちは、条件を求めません。
何がしかの条件が無いと愛されてはいけない。
いつからか私たちは、そんな思い込みをもってしまいます。
何かができなければ。
何かを持っていなければ。
何かを達成できなければ。
誰かに貢献しなければ。
愛されては、いけない。
そこにいては、いけない。
誰の胸の底にも、そんな想いがひっそりと眠っていたりします。
あなたは、そんなことをしなくても、愛される価値がある。
それは真実なのだけれども、ときにそれを伝えるのはとても難しかったりします。
時に、世界はあまりにもあからさまに、その真実を見せてくれます。
けれども、それはあまりにも単純であるがゆえに、それが真実だと気づくのは、難しかったりします。
そんなはずはない、もっと神殿の奥深く、誰も立ち入れない神域にこそ、真実は眠っているのだ、と。
そんなはずはない、この岩盤を割ったもっと底、奈落のようなところまで掘り進めないと、真実は見つからないはずだ、と。
当たり前であるほどに、人はそれを理解するのは難しかったりします。
あなたは、あなたでいるだけでいい。
そう言われたところ、「はい、そうですか」と納得することはできなかったりします。
ほんとのところ、そうなのにね。
わたしに価値があろうとも、なかろうとも。
陽は沈み、月は微笑み、季節は歩みを止めないものです。
わたしが、わたしの価値をどう見ようとも。
誰も気にしていないし、それを気に留める人もいないかもしれない。
わたしが、わたしをどう扱おうとも。
水は滔々と流れ、やがて母なる海へと還っていく。
けれど。
「生きていてくれさえすればいい」
この世界に、一人でもその想いを伝えてくれる人がいたとしたら。
それは、やはり奇跡なんじゃないかと想うのです。
「生きていてくれさえすればいい」
そんな情感を、人は一生のあいだに何度抱くのでしょうか。
連絡の取りようもない、別れた恋人に。
遠く離れて暮らす、我が子に。
あるいは。
あるいは、不思議なことに。
死に別れた誰か、あるいはペットに対しても、そう感じることがあるかもしれません。
もう会えないから、その愛のかたちは成立しないかというと。
決してそうでもなくて。
「出会ってくれて、ありがとう」
というかたちになるのかもしれません。
そこには、もう何の条件もなく。
それを伝えようとするとき、その想いは永遠の海に浮かぶ舟になるのです。
「生きていてくれさえすればいい」
もし、そう伝えてくれる人が、たった一人でも、この世の中に存在するのだとしたら。
それはやはり、奇跡なんじゃないかと思うのです。
そして、それを伝えられる人の美しさや愛を、もっと伝えられる私でいたい。
そう、思うのです。