自分にとっての愛の形と、周りの人の考える愛の形は、一致しているのでしょうか。
それを考えてみることは、私たちが受け取れる愛の総量を増やしてくれます。
1.愛を受け取るための条件
昨日の記事では、愛を受け取るための条件、というテーマでお伝えしました。
罪悪感のテーマからのつながりでした。
罪悪感の中でも、特に大きいのが「相手の愛を受けとれない/受けとれなかった」という罪悪感です。
相手が自分に差し向けてくれた愛、それを受けとれなかったときの罪悪感は、やはり強いものがあります。
相手の愛を受けとれないなんて、自分はなんて悪いヤツなんだろう…と、自分を責めてしまうのも、無理はないですよね。
ただ、愛を受けとるにも条件がいるよね、というのが昨日のテーマでした。
その条件というのが、気づきとタイミングです。
まず、自分に差し向けられたものが愛であると、気づく必要があるわけです。
すれ違いというか、相手は自分を想ってくれたものであっても、自分はそれを攻撃や非難だととらえてしまうことも、あったりしますよね。
だから、まずはそれが愛であると気づくことが、大切なことになります。
もう一つが、タイミング。
自分がいっぱいいっぱいだったりすると、そのときはどうしても受けとれない、ということもあるものです。
それで、自分を責める必要もないし、受けとれなかった自分を許していくことが、とても大切なことというのが、昨日のテーマでした。
そのとき受けとれなかったとしても、しょうがないじゃないか、とある意味で割り切ることも、必要なのでしょう。
2.愛のすれ違い
さて、今日はこの条件のなかの一つ、気づきについて、もう少し見てみたいと思います。
自分に差し向けられたものが、愛であるのか、それとも攻撃であるのか。
見方によって、それを180度変わってしまうものです。
厳しく接することが愛だと思っている人は、そのような形で愛を与えようとするのでしょう。
しかし、こうした愛を贈られた相手が、「愛とは、相手をいたわり、やさしく接すること」という観念を持っていたとしたら、その贈られたものは迷惑以外の何物でもないと感じてしまうかもしれません。
そこまで極端ではないにしても、自分の求める愛の形と、周りの人が差し出してくれる愛の形は、一致していないことがあります。
これ、考えてみると悲しいですよね。
与える側の人は、受け手を想ってそうしているのに、それがすれ違ってしまう。
自分が与える側であっても、受ける側であっても、それは悲しいものですよね。
3.愛の形を、限定しないこと
そういった意味では、愛の形を限定しないことが、すれ違いを防いでくれるのでしょう。
誰にでも、自分にとっての愛の形があるかと思います。
そして、その形のように、愛を与えようとしますし、また自分もその形で愛を与えてほしいと願うわけです。
自分自身にとっての、「愛の定義」とでも表現できるでしょうか。
試しに、「愛するとは、〇〇すること」という文章の、〇〇の部分にあてはまる言葉をいくつか挙げてみると、いいかもしれません。
そこに挙げられたものは、自分にとって愛を感じるものなのでしょう。
それは、そうした形で愛されてきたことの証明でもあります。
けれども、注意したいのが、そこで挙げた〇〇ではないものは、愛ではないと断じてしまうことです。
そこに挙げられたものだけが、愛する形ではないのでしょう。
百人いれば、百通りの愛し方があるのでしょうし、その形が重なっていることは、むしろ奇跡のようなものなのかもしれません。
だから、愛の形を限定しないことが、私たちに豊かさを与えてくれます。
「この人は、どんな愛し方をする人なんだろう?」
ぜひ、そういった視点で、自分の周りの人を見てみてください。
少しずつ、見えてくるものが変わっていくのでしょう。

今日は、愛の形を限定しないことが、豊かさにつながる、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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