自分でできることはいいことですが、そこに価値を置きすぎると、しんどいものです。
与えられたものを受けとれるようになると、もっと豊かに生きられるのです。
1.自立の先の世界
昨日の記事では、自立の先の世界、というテーマでお伝えしました。
自分の思いどおりにいかないことがあったり、望まないできごとが起きたりすると、私たちはどうしても受け身になります。
心理的には「依存」とよばれる状態であり、「自分には何もできない」「自分には力がない」と思い込んでしまう状態です。
しかし、こうした「依存」の心理は、何をするにも相手次第という、しんどい状態です。
ほしいものがあっても、それを相手にお願いして、待つしかないわけです。
それがしんどいので、人は「依存」から「自立」へと向かいます。
「自立」とは、自分でやろう!とする心理のことであり、依存時代に痛みを感じた分だけ、人は「自立しよう」と強く思うわけです。
そして「自立」した分だけ、自分でできることが増えていきます。
けれども、自分一人でやろとするがゆえに、「自立」しすぎると孤独や孤立、周囲との葛藤といった問題を抱えやすくなります。
カウンセリングで扱う問題の多くも、この「自立」の問題でもあります。
それが、「相互依存」と呼ばれる状態です。
自分でできることは自分でする、自分ができないことは誰かを頼る、というシンプルな状態です。
昨日の記事では、この「相互依存」をテーマに、お伝えしました。
2.「自立」でできるのは、半分まで
今日は、もう少しこの「自立」と「相互依存」のテーマを続けてみたいと思います。
「自立」は、一般的なニュアンスでいうと、ポジティブな意味合いのことが多いものです。
「あの人は、自立している」という表現は、精神的なものであれ、経済的なものであれ、いいニュアンスの意味ですよね。
これが心の世界だと、「自立」するとできることが増える分、孤立や孤独、周囲との葛藤を抱えやすくなるのは、先に書いた通りです。
カウンセリングで扱うテーマの多くは「自立」の問題であり、「誰かを頼ること」「委ねること」「任せること」といったことが、一つの方法といえます。
それらは「自立を手放す」ことであり、「相互依存」へと向かう手助けになるわけですから。
それはもう、このブログでも何度も書いてきましたので、もしかしたら飽き飽きされているかもしれません笑
それはともかくとして、今日のメインはそこではないんですよね。
今日お伝えしたいのは、
「自分で選んで、自分ですることって、とっても素晴らしいこと、価値があることだよね。でも、自分で選んでないもの、自分でしていないことにも、価値を見ることができると、もっと豊かな世界を受けとれるんじゃない?」
ってことなんです。
ちょっと、長くて分かりづらいでしょうか。
もっと端折って言うなら、「自立してできるのは、半分まで」というテーマです。
ますます分かりづらくなったような気がしますが、大丈夫でしょうか笑
なんというか、「自立」している人ほど、自分で選んだもの、自分がしてきた成果にこだわります。
それは、そうですよね。
それが、「自立」ってもんですから。
でも、そうじゃなくて、そもそも与えられたもの、誰かがしてくれたことも、受けとっていいんじゃないでしょうか。
それを受けとることができると、「相互依存」の世界が近づきます。
3.その鼓動は自分の意志で動いているのか
たとえば、自分の手は自分の意志で動かせるわけです。
それは、すごいことですよね。
自分の手を動かして、掃除をした。
だから、ピカピカにキレイになった部屋に、すごく価値がある。
それは、よく分かります。
けれど、そこ「だけ」に価値を見過ぎてしまうと、ちょっといびつになっていくんですよね。
どういうことかというと、「自分でやったこと」にしか、価値が無いように感じられてしまうようになると、ちょっとしんどいですよね。
たとえば、すごく疲れてしまって、自分の手を動かすことができずに、部屋が掃除できなかったとしたら。
散らかった部屋を見て、すごく自分を責めてしまうかもしれません。
あるいは、手を骨折して動かせなくなって、代わりに誰かが掃除してくれたとしても、「いや、自分でやらないとダメ」とか、「その人に申し訳ない」とか感じて、キレイな部屋でも居心地が悪くなってしまうかもしれません。
「自分で選んで、自分ですること」ばかりに価値を置くというのは、そういった危険性があるわけです。
そうじゃないものにも、自分が選んでなくても、自分がやってなくても、受けとってしまっていいんじゃないの?というのが、今日のテーマです。
究極的な話をしてしまえば。
私たちって、別に朝起きて「よーし、今日は心臓を動かそう!」と思って、動かしているわけではないですよね。
「いまから肝臓に栄養を運ぼう」と思って、しているわけではないですよね。
ある意味で、自分の意志とは関係なく、勝手に「生かされている」のが、私たちであると言えます。
もちろん、自分の意志として「生きよう」という意思もあるのでしょう。
けれども、私たちが生きているのは、「生きよう」という意思と、「生かされている」という恩恵と、その半々なのではないでしょうか。
そのうちの自分の意志だけに価値を見るのは、少し傲慢と言えるかもしれません。
もっと、与えられたものを受けとっていいんだと思います。
先祖の徳なのか、周りの愛情なのか、神の恩寵なのか、それを何と呼んでもいいとは思います。
ただ、そうしたものが私たちを生かしていると考えると、ただ「自立」しているよりもずっと豊かに生きることができるのではないでしょうか。
今日は、自分で選んでいないもの、自分でしていないことにも価値を感じることができると、実に豊かな世界が見えてくる、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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