誰かからの愛を受け取れたり、誰かに受け取ってもらえたりすることは、ある意味で奇跡のようなものです。
それは、当たり前のことではないのかもしれません。
1.愛の形を限定しないこと
昨日の記事では、愛の形を限定しないこと、というテーマでお伝えしました。
愛の形を限定しないことが、豊かさにつながる。 - 大嵜直人のブログ
私たちは、誰しもが自分の考える愛の定義があります。
「〇〇するのが愛」
「大切に思うならば、〇〇するのが当たり前」
などといった具合に。
それは、自分がそのように愛されてきたからであり、またそのように愛されたいと望みます。
けれども、こうした愛の定義は、裏返すと「愛ではないもの」も定義してしまうことがあります。
先ほどの「〇〇」ではないと、愛ではない、と感じてしまうように。
けれど、愛の定義は人それぞれ異なるのでしょう。
ものすごく単純なたとえでいえば、「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」みたいな感じでしょうか。
我が子を深い谷に突き落とすなんて、虐待だ!という見方もあれば、強くなってほしいがゆえに、そうすることもあるのでしょう。
それが正しいのかどうかは、あまり重要ではないのかもしれません。
「どちらがほんとうの愛か?」と争うことほど、悲しく寂しいものはないですもんね。
だから、もしかしたら、自分が思っているのと、違う愛の形もあるのかもしれない、くらいに考えておく方がいいのでしょう。
「この人は、どんな愛し方をする人なんだろう」
そんな見方で、周りの人と接してみると、少し違ったものが見えてくるかもしれません。
2.受け取れない不完全さを許す
愛の定義を、限定しないこと。
それは確かに大切なことではありますが、さりとて、限定してしまうのも、私たち人間です。
私たち一人一人が、異なる存在であり、またそれまでの生い立ちや家庭環境、接してきた人たち、いろんな経験によって、その定義は変わるものです。
「これも愛だよね」
と理解することができるならば、それは素晴らしいことですが、それができなかったとしても、自分を責めるにはあたりません。
「こんなの、愛じゃない!」
そう癇癪を起こして、愛を差し出してくれた相手に八つ当たりしてしまった経験は、誰にでもあるのではないでしょうか。
たとえ、そんなことがあったとしても、それはそれでしょうがない、と自分を許していけばいいんですよね。
常に100%、与えられた愛を受け取らないといけないと考えると、プレッシャーになってしまいますから。
愛を受け取れない、不完全な自分を、そして相手を許す、ということでしょうか。
3.もし、心が通い合ったと感じるなら
そう考えていくと、むしろ愛を受け取れたり、愛を受け取ってもらえたりすることは、奇跡のようなことなのかもしれません。
異なる存在としてのわたしと、あなた。
それが、同じ時代を生き、出逢い、心を通わせることができたのでしょうから。
そう考えると、奇跡以外のなにものでもないですよね。
優しくしてあげても、「いや、獅子ならば千尋の谷に…」と拒絶されることだって、いくらでもあるのでしょうから笑
もし、愛が伝わったり、受け取ってもらえたりしたら、その奇跡を喜ぶだけでいいのでしょう。
もう、赤飯を炊いて、シャンパン入れて、祝砲を挙げるくらいで、いいのでしょう。
お祝いの仕方がいかにも昭和ですが、気にしないでください笑
愛を、受け取れること。
愛を、受け取ってもらえること。
心が、通い合ったと感じること。
それは、当たり前のことでは、ないのです。
そうできないことを、責めなくてもいいんです・
そして、もし、そう感じることがあったなら、その僥倖を心から喜びましょう。
それは、当たり前のことでは、ないのですから。

今日は、愛を受け取れたり、受け取ってもらえたりすることは、当たり前じゃないのかも、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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