大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「虹蔵不見」、隠れて見えないものに想いを寄せること。

もう11月も下旬ですね。

急に気温が下がってきたようで、朝は布団から抜け難い時期になってきました。

毎年のことですが、この時期の朝の布団って、なんであんなに魅力的なんでしょうね笑

時候は「小雪」に入りました。

読んで字の通り、いよいよ雪が降り始めるころ。

それでも、まだ積もるまでは降らないことが多いころでもあります。

それを「小さな雪」と名付けるのは、実に美しいなぁ、と思うのです。

少しずつ冬も本番に近づき、師走が近づくころでもあるので、いろんな準備をするころでもあります。

七十二侯では、「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」。

4月のなかごろの時候である「虹始見(にじはじめてあらわる)」と、対をなす時候の名ですね。

冬のはじまりのこの時期は、どんよりとした曇り空の日が多くなり、日差しも弱く乾燥してくるので、虹をなかなか見ることができなくなるとされます。

 

この「虹蔵不見」もまた、美しいと感じるのです。

なぜって、「見えるもの」ではなくて「見えなくなるもの」を、その名にしているからです。

赤や黄色の葉っぱが落ちて、空が曇りがち…

そうした「目に映るもの」に意識を向けるのではなくて、いま見えていない虹に、想いを寄せること。

それが、ことさらに美しいのです。

そこには、「目には見えないもの」、「いまここにないもの」に意識を向けていないと、見えない世界だからです。

「えぇ?あんた、いっつも『いま、ここに意識を向けましょう』って、言ってるじゃん!」と言われるかもしれません。

えぇ、まぁ、そうです。

それはそれ、ということにしておいてください笑

いま目の前にないものにこだわり過ぎると、それは「ちゃんといま、ここにあるものを見ましょう」とはなります。

そうした執着と、目に映らないものに意識を向け、そこに想いを寄せるのは、ちょっと違うんと思うんですよね。

なんというんでしょうか、軽やかさ、とでもいうのでしょうか。

 

何かが目に見えないとき、それが「無い」かといえば、そうでもないのです。

「虹蔵不見」の時期だから、虹は無いのかといえば、私たちの意志のなかにあるように。

目で見ることと、また違う世界なのでしょう。

記憶とか、意識とか。

それともまた、違うように思うのです。

もし、生化学の研究がもっともっと進んだら、「虹」を認識する化学物質や、そのサインのようなものが、私たちの脳内で見つかるのでしょうか。

もし、そうだったとしても。

「虹蔵不見」の「虹」とは、それはまた違うように思うのです。

 

目に映る冬の情景もまた、美しいものです。

それと同時に、「虹蔵不見」の虹もまた、そこにあるのです。

たとえ、見えてはいなくても、です。

そのどちらかに偏ってしまっては、世界の美しさの半分だけしか知らないのかもしれません。

目に見えるもの。

目に見えないもの。

「虹蔵不見」は、その結び目にあるような気がするのです。

 

さて、ずいぶんと冷え込むようになってきました。

あなたのお住いのところでも、寒くなってきたでしょうか。

お身体冷やしませんよう、どうぞ暖かくしてお過ごしくださいませ。