年末は見ている人も少なくなるので、少し私的なことを書いてみようと思う。
父親とその役割について、ということを、ぼんやり考えている。
父は、忙しい人だった。
あの昭和の時代に仕事をしていたのだから、それはそうだと思う。
働き方改革なんてものが叫ばれるはるか前、平日は夕飯を一緒に食べた記憶がほとんどない。
私が中学校に上がった頃に、北陸に単身赴任を命じられ、記憶の中ではいつも父は不在だった。
単身赴任から戻ってきたら、今度は私が大学で上京して一人暮らしを始めることになったのだから、入れ替わりだったように思う。
それでも、鉄道の仕事をしていた父のこと、元旦から現場の慰労に出勤していた父を見送った記憶があるから、1年くらいは戻ってきて一緒に暮らしたのだろうか。
私が大学を卒業する前に、突然に亡くなったので、余計に不在を感じやすいのかもしれない。
それでも、筆まめな父だったので、下宿先に葉書を送ってくれたりもした。
まあ、そんな父との距離感だったから、自分の子どもに対しても、ある程度の距離がある方がしっくりくるのだろう。
逆に、距離感が近くなってくると、拒絶反応が出たりする。
勉強を教えてほしいと言われると、「それくらい自分でやれ」と突き放したくなる。
私自身、親に教えてもらった記憶がほとんどない。
教えてもらう必要がなかったのかもしれないが、おそらくは自分でなんとかするほかなかった、というのも真実なのだろう。
子どもとの距離感が近くなるほどに、心がざわつく。
理由はおそらく、「自分だって、もっと近くにいてほしかったのに」という、心の奥底に隠してきた依存心が疼くからだ。
それを自覚できるようになっただけ、癒しが進んだともいえるのだろう。
ただ、それは持病のようなもので、直そうと思っても、なかなか簡単に直るものでもない。
気長に付き合っていくほかないのだろう。
そんな父との関係性のなかにおいて、一緒にナゴヤ球場にドラゴンズの応援に行くのは、数少ないイベントだった。
父も野球が好きだったし、私もそうだった。
大勢の人が一緒になって応援するのが好きだったから、ライトスタンドが好きだった。
せっかく父が内野席のチケットを取ってきても、そのチケットで外野席に行くようにせがんだ記憶がある。
当時の外野席は、それこそ昭和の時代よろしく、えぐいヤジが飛び交い、紙吹雪が舞うごった煮のような喧騒感があったが、小さな私はその中にいることで、どこか大人になれたような気がした。
父に連れられた外野席で、いつも父に挨拶をしてくるヒロセさん、という方がいた。
ヒロセさんは、父と同じ会社に勤める方だと聞いた。
父の話しぶりからすると、チケットを手配したりしてくれていたのが、ヒロセさんだと思われた。
父は生ビールを奢っていたりしていたが、ヒロセさんはヒロセさんで、「いや、いつもお世話になってますんで」と言っていた。
父とヒロセさんは、どんな関係だったのか。
上司と部下だったのか、それとも、もう少し遠い距離感だったのか。
ヒロセさんは、付き合い上仕方なく父と私の世話をしてくれていたのだろうか。
歳を重ねていろんな経験を積むにつれて、そんなことを考えてしまう。
ただ、そうしたことを抜きにしても、父とヒロセさんの間の空気は、家で見る父とは異なる空気で、自分の知らない父だった。
それは、家と学校しか知らない私にとって、新鮮な空気だった。
いつだったか、「ヒロセくんは、ビジターの遠征までついていく熱心なファンだからなぁ」と、父が言っていた。
テレビのなかの世界でしかなかったビジターの試合に行くなんて、いろんな人がいるもんだと思ったことを覚えている。
その「いろんな人」に、オトナになった自分がなっているとは、そのときの小さな私は想像だにしなかった。
結局、父親の役割とは、新しい世界を見せることなのかもしれない。
それも、ああせえこうせえと言葉でどうこう言うよりも、自らの行動で示すこと。
自分が外に出て、失敗し、感動し、発見し、そして愛すること。
それが、父親の役割なのかもしれない。
もちろん、その役割に縛られることも、必要ないのではあるが。