立秋を過ぎると、どこか「終わり」を感じさせられる時間が増えるものです。
夏の終わり。
さまざざまなものの、終わり。
この時期に「お盆」があるのものまた、その感覚を助長するようにも思います。
あるいは、70年前の「終戦」というできごともまた、それと同じかもしれません。
たくさんの人の命が失われた、戦争。
私の祖父母の世代は、実際にそれを経験していました。
あまり戦争について語ることはありませんでしたが、彼らのまなざしの底には、共通したものが流れていたように思います。
私事なのですが、私はこの時期が誕生日なのです。
お盆と、誕生日。
生と死を感じさせるイベントが両方やってくるのが、私にとっての8月という月のようです。
今年は、そんな誕生日に、お墓参りに行ってきました。
なぜか、誕生日にお墓参りに行った記憶が、あまりありませんでした。
時期は近いのに、めぐりあわせでしょうか。
この日も、予想最高気温は37度と、体温超え。
お茶を入れた水筒を持って、車を西へ走らせます。
うっすらと雲のかかった、青い空。
自分が生まれた日の空は、どんな色だったのか。
そんなことを想いながら、車はお盆休みで空いた道路の市内を抜けていきます。
考えてみれば。
菩提寺のある故郷で過ごした時間よりも、そこから離れて暮らした時間の方が、長くなっていました。
それだけに、でしょうか。
そのわずかな、家族で過ごした思い出をなぞる時間が、増えたようにも思います。
それは、もう戻らないものゆえに、切なさのような痛みもあるのですが。
ただ、それは毎年過ぎゆく夏の寂寥感と、ないまぜになっているようにも感じます。
夏の思い出といえば、父の会社の保養所に家族で行ったことが、思い出されます。
海の近くの、保養所。
父は、そこの寮長さんと仲良しで、保養所を訪れると、一緒にお酒を飲んでいたように思います。
私も含めた子どもが大きくなり、また父も単身赴任で県外に出ていってしまったので、その保養所に行けたのも、実にわずかな期間、回数だったのかもしれません。
もう戻らないもの。
ただ、失われたのでは、ないように思うのですが、どうなのでしょうか。
お盆時期の菩提寺は、何組かの墓参客がいました。
それにしても、なにもしなくても汗が吹き出てくるような、暑さ。
墓石に柄杓でかける水が、かけたそばから温くなるような、そんな感じもしました。
墓石を磨き、道中で買った生花をお供えしながら。
ほおずきの橙色は、実にこの時期にふさわしいようにも思うのです。
お盆、誕生日。
手をあわせて、静かに祈る時間。
墓参を終えて見上げた空は、変わらずうっすらとした雲がかかっていました。