自分が「当たり前」だと感じることは、少し深掘りしていくと面白いことが見えてきます。
それは、自分自身の中にある傷に気づくチャンスだといえます。
1.「当たり前」とは、「正しい」と感じている事
こんなことは「当たり前」だと感じることが、誰にでもありますよね。
「脱いだ靴下は、洗濯機に入れるのが当たり前」
「メールやメッセージは24時間以内に返信するのが当たり前」
「初対面の人には、愛想をよくするのが当たり前」
…などなど、人それぞれに「当たり前」を感じるポイントがあるものです。
これをお読みいただいているあなたには、どんな「当たり前」があるでしょうか。
さて、そうした「当たり前」と感じるポイントですが、「自分がそうしないといけない」と強く感じると同時に、「他人もそうするべき」と感じるポイントでもあります。
そして、自分以外の誰かがそれをしないと、強い怒りを覚えたりもするものです。
脱いだ靴下を放置されたり、
メッセージに既読無視をされたり、
初対面なのに無愛想な対応をされたり、
そうした状況で「はぁ?なんでそんなことするの?こうするのが当たり前じゃないの?」と感じる人は、そうしたことに「当たり前」を感じているのでしょう。
なにをそんな「当たり前」なことを?と思いますでしょうか笑
そういった意味で、「当たり前」と感じることは、自分のなかで「正しさ」を強く持っている部分と見ることができます。
「当たり前」と感じることは、そうするのが「正しい」と感じていることといえます。
2.「正しさ」は自立の象徴でもある
さて、この「正しさ」。
「正しいことは、よいことである」というのが一般的な見方かもしれませんが、こと心の世界においては、少し厄介な存在です。
「正しさ」にこだわりだすと、とても息苦しくなっていきます。
この「正しさ」にこだわるのは、「自立」的な人の特徴の一つです。
何度もお伝えしている、「依存ー自立ー相互依存」という、人の心の成長モデルのなかの「自立」ですね。
「依存」時代に何もできないことの反動で、「なんでも自分でしようとする」時代が、「自立」のステージといえます。
自分でできることがとても増えていく反面、孤独や孤立を感じやすくなるのが、「自立」でもあります。
その「自立」的な人が、非常にこだわるのが、「正しさ」です。
そして、自分の「正しさ」と、誰かの「正しさ」を、いつも争うようになります。
「正しさの争い」とよばれるように、競争、勝ち負け、優劣を決めることに、強くこだわるのが「自立」的な人の特徴といえます。
靴下を脱いだら、洗濯機に入れる「正しさ」。
気づいた人が、片づければいいという「正しさ」。
その二つの「正しさ」が衝突するのが、「自立」の象徴といえます。
3.なぜ「自立」的な人は「正しさ」にこだわるのか
「自立」につきものの、「正しさ」。
それゆえに、「自立」的な人は、誰かと争わざるをえなくなり、常に戦闘状態にいないといけなくなるわけです。
しかし、ここで考えてみたいのが、「自立」的な人が「正しさ」にこだわる理由です。
なぜ、そんなにも、その「正しさ」を大切にしているのか。
自分のなかのそうした部分と向き合うことは、とても大きな恩恵を与えてくれます。
それは、他人のなかにも、同じように推し量ることができるようになるからです。
「自立」的な人が、「正しさ」にこだわる理由。
それは、「依存」時代に傷ついた経験からくる場合が多いものです。
その経験というのは、もちろん人によって千差万別ではあります。
ただ共通しているのは、「愛する人から嫌われた」あるいは「大切な人に愛を伝えられなかった」という場合が多いものです。
「靴下を洗濯機に入れるかどうか」に、嫌われたことや愛が関係しているのか?
と思われるかもしれません。
「依存」の時代に、こんな経験があったのかもしれません。
お母さんが几帳面な人で、いつも脱いだ靴下は片づけなさいと怒られていた。
自分は大らかな性格なので、なかなかそうすることができなかった。
あるいは、こんな経験かもしれません。
いつもお父さんもお母さんも忙しそうにしていた。
抜き散らかされた靴下や、散らかった部屋を、いつも両親がイライラしながら、片づけていた。
あるいは、もっと違う経験かもしれません。
「正しさ」の裏側には、そんな「依存」時代の痛みや傷が潜んでいるのものです。
そうした傷を守るための自己防衛が、「正しさ」といえます。
そう考えていくと、「自立」的な人が「正しさ」にこだわり、手放せない理由が、少し理解できるのではないでしょうか。
そうした「正しさ」は、私たちの生きる幅を狭めてしまうものです。
少しずつ「正しさ」を手放していくことができればいいのですが、その前に、なぜその「正しさ」にこだわってしまうのかに視点を向けるのは、とても意味があることだと思うのです。
「正しさ」にこだわることは、悪いことでも、間違っていることでありません。
ただ、その裏側にある傷、ひいては自分のなかの愛につながることができれば、それ以上のことはないと、私は思うのです。
そのように考えていくと、「当たり前」と感じることは、自分のなかにある「正しさ」が反応している部分といえます。
そして、なぜその「正しさ」を譲れないのだろうと考えていくと、自分のなかの傷や痛みに気づいていくことができるのです。
今日は、そんな「当たり前」が教えてくれるものについて、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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