パートナーを見捨てる怖れから、自分だけ幸せになってはいけない、と感じることがあります。
そうした怖れのルーツは、自分の親をどう見ているかに関係していたりします。
1.自分から幸せになる、というリーダーシップ
昨日の記事では、パートナーシップのリーダーシップ、というテーマでお伝えしました。
パートナーシップのリーダーシップ ~自分から幸せになる、ということ - 大嵜直人のブログ
パートナーシップとリーダーシップ、なんだかシップシップで似た言葉ですね笑
お伝えしたのは、「自分から幸せになることが、パートナーとの関係を良好なものにする」というテーマです。
「自分から」というのが、ポイントなんですよね。
とかく、感受性が高かったり、相手の気持ちを推し量れる人だったり、あるいは誰かを癒したい人ほど、自分以外の人のことを優先してしまいがちです。
それはパートナーシップにおいては顕著で、「あなたが幸せになってからでないと、わたしは幸せにならない!」みたいな誓いを立てている方も、少なくありません。
特に、そうした方は、傷ついている相手や、影のある相手を「わざわざ」選んでしまったりもします。
これ、別にそれが「悪いことだ」って言いたいわけではないんです。
自分の幸せを差し置いてまで、相手の幸せを願えるって、人として美しいですし、尊いことだと思います。
ただ、パートナーシップにおいて、相手を幸せにする方法は、それだけではないかもしれない、というのが昨日のテーマです。
それが、「自分から幸せになる」というリーダーシップを取る方法です。
自分が幸せでいる。笑顔でいる。
そうした姿を見せる。
それが、何よりもパートナーを幸せにする大きな力になります。
「自分だけが笑っていたら、パートナーに申し訳ない」
やさしい人ほど、そんな後ろ髪を引かれるような感覚が出てくることもあります。
けれども、自分に置き換えて考えてみると、やっぱりパートナーが笑顔で、幸せそうでいてくれることって、幸せなことですよね。
だから、「まずは自分が」幸せになることが、パートナーシップにおいてとても大切なことです。
2.見捨てる怖れの「原型」
今日は、このテーマをもう少し掘り下げてみたいと思います。
先ほどの「自分だけが幸せになると、パートナーに申し訳ない」という想い。
これ、すごくわかりやすい罪悪感ですよね。
罪悪感があると、自分だけが恵まれる、幸せになることを強く怖れます。
誰かを見捨てて、自分だけが幸せになるくらいなら、いっそ自分も不幸せでいた方がいい…
意識的にせよ、無意識的にせよ、そんな風に考えてしまう人は多いものです。
思い当たる節は、ありますでしょうか。
それだけ強い罪悪感を抱くということは、それだけ大きな愛を持っていることの裏返しなのですが、問題はその罪悪感のルーツがどこから来たか、です。
私のブログを読んでいただいている方は、「また、これか…」と思われるかもしれませんが、また、それです笑
すべてがそうではないとは思いますが、やはり「親」なんですよね。
特に、幼いころにかかわる時間の長い「母親」。
これが、見捨ててしまう罪悪感のルーツになっていることが多いものです。
ものすごく単純化して言ってしまうと、「親が幸せそうじゃなかった」という意識があると、この見捨ててしまう罪悪感を持ってしまうことがあります。
そうした意識は、千差万別でいろんな形があると思います。
「親がいつもヒステリックで、感情的だった」
「親が病弱で、いつも身体が辛そうだった」
「親がいつもお金に困っていて、しんどそうだった」
「お母さんがお父さんと不仲だった」
…などなど、カウンセリングでも非常によく伺うテーマだったりします。
こうした経験があると、どうしても「自分が幸せになる」ことに怖れを抱き、ブレーキをかけやすくなります。
かくいう私も、「父親も母親も、突然に亡くなったので、無念だっただろうし、不幸だった」という意識がありましたので、この見捨てる怖れについては、とても親密感があるんですよね笑
パートナーシップの問題の多くは、親との関係に起因します。
もちろん、それがすべてではありませんが、この「見捨てる怖れ、罪悪感」に関しては、非常に親との関係の影響が大きいものです。
3.ほんとうに親は不幸せだったのだろうか?
こうした罪悪感への対処は、まず「気づく」ことです。
「あぁ、自分は親を見捨てたくなかったんだな」と気づくだけでも、変わるものがあります。
そして、気づいても責めないこと。
もちろん、自分を、です。
いままでその罪悪感を背負って、自分を罰してきたのですから、それ以上、自分を責めないことが大切です。
罪悪感の大きさは、愛の深さに比例します。
「あぁ、それだけ愛していたんだな。幸せになってほしかったんだな」
そう思うだけで、いいんですよね。
それ以外のことは、必要ありません。
できれば、自分がどれだけ大きな愛を持って想ってきたのか、その愛とつながることができると、いいのでしょう。
その上で、もう一つ付け加えるとしたら。
「親が不幸せだった」という見方が、ほんとうだったのか?という視点は、少し時間をかけて考えてみても、いいのでしょう。
幸せって、とても主観的なものです。
ちょっとキツイ言い方に聞こえるかもしれませんが、他人の幸せを自分が規定することって、少しおこがましいと言えるのかもしれません。
もちろん、「自分にとって、親が不幸せに見えた」というのは、事実なのでしょう。
自分がそう感じたのですから。
でも、果たして「親が不幸せだったかどうか」は、親以外の人には判断できないことだと思います。
自分にしたって、そうですよね。
自分以外の人から「あなたは、とても不幸せだね」と言われたら、ちょっとカチンときますよね笑
人の幸せって、その人以外にはわからないものです。
まあ、毎週末にお馬さんとにらめっこして、せっせとJRAに募金するのを幸せと感じる人もいるでしょうし笑
それはともかくとしても、苦しむことや、葛藤や痛みの中にいたとしても、それが不幸せかどうかは、その人自身が決めることです。
だから、私たちにできることといったら、「きっと幸せだったんだろうな」と思うことくらいでしょうか。
「こんな素晴らしい子どもがいたんだから」と付け加えられたら、なおよし、ですね。
私も、ずいぶんと親のことでは胸を痛め、罪悪感と仲良しになってきました笑
ずっと、「不幸な死に方をした」と決めつけていたんですね。
でも、あるとき、ある方から、こんな言葉をいただきました。
『寿命』とは、いのちのことぶき、と書きます。
たとえそれがどんな終わり方であっても、それは寿命であり、『ことぶき』なんです。
その言葉をもらって、ずいぶんと楽になった気がします。
「おとうさんは、十分に幸せだった」
「おかあさんは、幸せな人生を全うした」
少しずつ、そう思えるようになったんですよね。
もちろん、やっぱり後悔や罪悪感があふれるときもあります。
それは、人間ですから100%は難しいのでしょう。
でも、そうしたものも含めて歩いていくのが、生きていく、ということなのでしょう。
今日は、親を見捨てる怖れを乗り越える、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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