今日は、心理学というよりもエッセイ的な何か、です。
肩肘張らずに読み流していただけますと幸いです。
大切なものを失ったとき、私たちは強い悲しみと寂しさを抱えます。
それが大切なものであればあるほど、自分の身体の一部がどこかへ消えてしまったような気がすることもあります。
あるいは、昨日までとは世界がまるっきり入れ替わってしまったような、そんな感覚に陥ったりもします。
その大切なものというのは、家族やパートナーといった人の場合もあれば、かわいがっていたペットの場合もあるでしょうし、故郷の風景、あるいは成し遂げたかった目標や叶えたかった夢の場合もあるのでしょう。
いずれにせよ、何かが失われるというのは、私たちにとって強烈な体験ですし、それが大切なものであればあるほど、その痛みも大きいものです。
「失う」、あるいは「喪う」。
私たちが生きていく以上、それは避けられない体験ではあります。
けれど、「失う」というのは、実に不思議な表現です。
辞書を引くと、一番目には
今まで持っていたり、備わっていたりした大事なものをなくす。
と出てきます。
そこには、いままで所有していたものが、なくなるというニュアンスがあるようです。
せっかく手に入れていたものが、なくなったり、誰かに取られたりする。
その落差が、私たちに強いストレスを与えるのでしょうか。
考えてみれば。
私たちが「所有していた」「持っていた」と思えるものは、どれくらいあるのでしょうか。
(法律では、「所有権」という言葉で表されるのでしょうけれども)
何ならば、私たちは真に「所有している」といえるのでしょうか。
お財布の中のお金?
自分のカバン…?
なんだか、ほんとに「そうだ」とは言い切れない気がします。
一番身近な、自分の身体にしたって、自分自身だけの持ちものではないように感じます。
ご縁あって生まれたこの世を歩むための、借りもののような感覚の方が、真実には近いように思うのです。
自分の身体ですらそうなのですから、それ以外の他人や風景や…そういったものは、言うまでもないのでしょう。
そうなると、私たちが確実に「持っている」といえるものは、何もないのでしょうか。
もし、何も持っていなければ、何も失うことはないのでしょうか。
でも、何かを失ったと感じたときの、この胸を突く空虚さは、何なのでしょうね。
「二度と会えなくなることが、悲しいんだ」
そう思われるかもしれません。
たしかに、そうかもしれません。
けれども、気づいていないだけで、結果的に二度と会わないままになる相手って、あるのでしょう。
そこには、私たちは悲しみやストレスをあまり感じません。
「いつか、会おうと思えば会えるから」
その感覚があるかないかが、「失う」こととの違いなのでしょうか。
会おうと思っても、もう、会えない。
その悲しみを感じさせる人が、いる。
その悲しみが、どこに流れ着くのか、私はよくわからないでいるのです。