自分を否定してしまうのは、それだけ厳しい基準を自分に設けているから。
なぜそんな厳しい基準を設けたかといえば、それだけ愛した勝った人がいるから。
1.自分は役に立っていない、という感覚
昨日は、「自分は役に立っていない」という感覚、というテーマでお伝えしました。
誰かの役に立っていると感じると、人は満たされますし、充実感を覚えます。
寄付やボランティアをすると、「ええ感じ」に満たされるのは、そういった作用からもあるのでしょう。
しかし、その裏返しとして、誰の役にも立っていない、自分は何の役にも立っていないと感じるとき、私たちは強い自己否定を感じます。
自分はここにいてもいいのだろうか。
自分なんかが、やっても仕方がない。
そうした感覚は、私たちの存在意義をも脅かすものです。
仕事において、あるいは家族やパートナーシップ、友人との関係のなかでも、そうした感覚を抱くことはあるかもしれません。
昨日の記事では、こうした「自分は役立たずである」という感覚を癒す一つの見方として、「自分を役立たずとして見ることで、得られているものはなんだろう?」という見方をご紹介しました。
その問いの答えは、画一的なものはありません。
人それぞれに、自分が「役立たずである」という感覚を持つに至った背景があり、それなりの理由があるのでしょう。
そうした理由と、「役立たず」でいることのメリットを、考えてみる視点をご紹介しました。
そしてもし、そのメリットが、いまの自分に必要がなければ、「役立たずである」という自己イメージは、手放していけるのでしょう。
2.役に立ちたいからこそ、役立たずだと感じる
さて、今日はこの「役立たず」という感覚について、もう少し掘り下げてみたいと思います。
そもそも論というか、ものすごいスタートラインのお話なんですが、「自分は役に立っていない」と感じることって、一元的に悪いことではないんです。
なぜか。
「役立たず」だと感じるということは、そこには「役に立ちたい」という想いがあるからです。
え?と思われますでしょうか。
これ、非常に見落としやすいんですけれども、「役に立ちたい」と思うことって、当たり前じゃないんですよね。
いや、そう思っている当人からしたら、当たり前かもしれません。
誰でも、そう思うんじゃないの?って。
しかし、自分の常識は他人の非常識よろしく、それは当たり前じゃないんですよね。
それほど誰かの役に立ちたいと思っていない人にとっては、自分が役に立っていようが、立っていなかろうか、別にどうでもいいことなんです。
それより、明日の天気の方が気になるかもしれません笑
「自分は役に立っていない」という感覚を持つ人って、そもそもが誰かの役に立ちたい人ですし、ひいては、周りの人に尽くしたい、愛したい人なんです。
もちろん、役に立つことで、自分の存在価値を認めたいとか、そうした意識もあるとは思います。
けれど、そうしたものが混じっていたとしても、「誰かの役に立ちたい、尽くしたい、愛したい」という想いがあることは、真実ではないでしょうか。
それは当たり前じゃないし、その想いは尊いものですし、それでいて、その価値を当の本人自身が、理解していないことが多いものです。
役立ちたいからこそ、役に立っていないと感じたりもするんです。
3.自己否定は、愛の裏返し
これは、「自分が役に立っていない」という形の自己否定に限った話ではありません。
自己否定って、どうしてもしんどいものですし、しない方がいいし、自己否定をする自分自身を否定したり責めたくなってしまうものです。
しかし、自己否定をする根本にある愛を、見失わないでほしいのです。
自分を否定してしまうのは、自分の描いた理想や基準に、自分が達していないから。
その基準って、当たり前じゃないんです。
誰でも、その基準を持っているわけでも、ないんです。
多くの場合、その基準は、誰かを愛したいから、誰かを助けたいから、誰かを笑顔いしたいから、その基準を設けます。
それだけ、愛したかったんです。
自分を否定するほどに高い基準を設けるほど、愛したかったんです。
大切な人を。
自己否定はやめたほうがいいですし、緩めていった方がいいのはそうですが、そのおおもとにあった愛は、否定しないでほしいのです。
それを否定してしまうと、自分が何をやっているのか、分からなくなりますから。
自己否定をするほどに、愛したかった。
それくらい、自分が愛の深い人だってことに、あなたは気づいていますでしょうか。

今日は、自己否定は、愛の裏返しでもある、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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