自分が嫌って、抑圧してしまった部分、隠してしまった部分は、他人が教えてくれるものです。
「シャドウ」とよばれる心理を、お伝えしていきます。
1.嫌いな自分の扱い方
昨日の記事では、嫌いな自分の扱い方、というテーマでお伝えしました。
自分のなかの見たくない部分を受け入れるには、まず共感すること。 - 大嵜直人のブログ
自分のなかの、嫌っている部分。受け入れられない部分。
誰にでも、大なり小なりあるかと思いますが、それが強すぎると、苦しいですし、生きづらくなります。
サボりたがりの自分。
ずる賢い自分。
文句ばかり言う自分。
私たちのなかには、いろんな自分がいますが、そうした自分を「あなたは存在してはダメ」と切り捨ててしまうと、すごく息苦しくなるわけです。
「白河の清きに魚も棲みかねて…」という江戸時代の狂言にもある通り、これは人間社会でも同じですよね。
社会の問題は多様性を認めるとか、そういった方向性になるのでしょう。
自分の心のなかの問題においては、そうした「自分が嫌っている自分の部分」を、自分が受け入れていくというプロセスが求められます。
それは、自分を肯定するとか、自己肯定感を考える上でも、とても大切なものです。
昨日の記事では、そのためにはまず「共感」から始めましょうか、というテーマでした。
その自分に対して、正誤善悪の判断をするのではなく、「そうだよね」とか、「そう思うのも無理ないよね」とか、そういった共感から始めてみてはいかがでしょうか、という提案でした。
2.抑圧している部分は、他人が教えてくれる
さて、こうした嫌っている部分や、自分が抑圧している部分というのは、えてして自分の周りの人が教えてくれるものです。
自分が嫌っていて、抑圧したり、隠そうとしたりしている部分。
わがままな自分。
依存的で他責思考な自分。
我慢せずに言いたいことを言う自分。
そうした部分を隠そうとするほどに、その要素を持った他人が、自分の前に現れるのです。
モグラ叩きのように、自分のなかに隠した分、それが外の世界に出てくるのでしょう。
で、そうした要素を持った人が現れたとき、私たちはどう感じると思います?
そうです。
めっちゃ嫌悪感を抱くんです。
ふざけんな、コイツ!と思うわけです。
不倶戴天の仇敵のように感じるわけです。
要は、めちゃくちゃムカつく、イヤなヤツに見えるんですよね。
この自分が抑圧した要素を持った相手のことを、心理的には「シャドウ」と呼んだりもします。
自分が抑圧している部分を、映し出している存在が「シャドウ」です。
3.生きられなかった、もう一人の私
「シャドウ」は、生きられなかった、もう一人の私、と言われたりもします。
そのままでは生きられなかった、もう一人の私なんです。
はい、イヤですよねぇ…ほんと。
そのムカつく、嫌いなヤツが、自分だなんて笑
けれども、これはとっても大切な視点なんですよね。
抑圧するということは、自分は本来、その要素を持っているわけです。
そして、何らかの事情やできごとがあって、その自分のなかの一部を抑圧したり、隠したりしてしまってきたわけです。
これは、ある意味ですごく強い自己否定です。
だって、自分の中の一部を、自分が「お前はいらない」って、言っているようなものですから。
自分の右手に、「いやぁ、なんか右手って嫌いだから、お前はもういらないよ」って言うのと、同じレベルの話なのかもしれません。
自分で、自分を否定してしまうこと。
それは、想像以上に私たちを傷つけるものです。
そうした自己否定をやめ、癒していく必要があることを、「シャドウ」という存在は教えてくれるのです。
今日は、抑圧してしまった部分は、他人が教えてくれる、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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