ずっと欲しくてたまらないのに、いま自分の手のなかにないもの。
それは、自分自身の「才能」と密接に関係があるのかもしれません。
1.「才能」あるがゆえの葛藤
先日の記事では、「才能」の葛藤、というテーマでお伝えしました。
「才能」の葛藤と、平和の天使のたとえ。 - 大嵜直人のブログ
「才能」というテーマのつながりですね。
自分のなかに「才能」がある分野ほど、私たちは自分に対して厳しくなります。
自分が当たり前にできるはずだ、と思っているからこそ、自分に課すハードルが高くなるんですよね。
それは、時に自分を否定したり、ダメ出ししたりする要因になってしまったりもします。
言ってみれば、「才能」があるゆえに抱える、影の部分です。
100mを10秒台で走れると思っているからこそ、11秒台の記録だったときに、めっちゃ落ち込んだりする感じでしょうか。
それだけ見ている目線が高いわけですし、自分ができると信じているわけですよね。
でも、周りから見れば、「え?11秒台??めっちゃすごいじゃん!!」と、ギャップがあるわけです。
「才能」があるゆえに、葛藤を抱えることは往々にして起こるわけです。
昨日の記事では、そんな「才能」の葛藤のたとえとして、「平和の天使はどこに生まれるか?」というお話をご紹介しました。
2.欲しくてたまらないのに、手に入らないものは?
こうした「才能」のお話を見ていくと、奇妙なパラドックスに気づきます。
それは、人生のなかでずっと欲しくてたまらないのに、手に入っていないものは、それは自分が持っている「才能」と密接に結びついている可能性がある、というものです。
ある人にとっては、それは穏やかな家庭かもしれません。
またある人にとっては、安心感や居場所かもしれません。
ある人にとっては、信頼してすべてを委ねられるパートナーかもしれません。
ある人にとっては、経済的な豊かさかもしれません。
そうした、自分がずっと欲しくてたまらないのに、手に入らないもの。
それは、視点を変えると、自分がすでに持っている「才能」の一部だったりします。
たとえば、先ほどの「100mを10秒で走れる」という資質。
10秒で走れたら、満足すると思いますか?
しないですよね。
「いや、もっと…!」と、9秒台を目指すと思います。
アスリートとは一緒にならないよ、と思われるかもしれません。
けれど、これが「安心感」だったら、どうでしょうか。
昨日の「平和の天使」のたとえではないですが、「安心感」を与える才能がある人ほど、それを必要とする場所を選んでしまうものです。
そして、周りからは「安心感」を与えられないと感じたりもするものです。
だって、誰が「100mを10秒で走れる人」に、走り方を教えようと思いますか?
(ウサイン・ボルトなら…というツッコミはなしでおねがいします笑)
そうなんです。
「才能」を持っている分野ほど、人からは与えられないものだったりするのです。
3.「才能」を自覚すること
それは、ある意味で不条理と言えば、不条理です。
だって、欲しくてたまらないものがあるのに、「それはあなたがその『才能』を持っているからだよ」と言わるわけですから。
「なんだよそりゃ?!」
と思われるのも、当たり前ですよね笑
でも、そうなんですよね。
居場所を与える「才能」があるゆえに、孤独感や寂しさを抱えた人ばかりが目につきますし、そうした人と関わろうとするわけです。
そして、その人の孤独を癒してあげられなかったと感じたとき、深く傷つき、罪悪感を抱えるのです。
人を許す心の器の大きさを持っているがゆえに、到底許せないような人やできごとに出会うのです。
そして、それを「どうして許してあげられないんだろう」と葛藤するわけです。
それらは、「才能」があるがゆえに、起こることなんです。
なんとなく、想像できますでしょうか。
まずは、自分がそうした「才能」を持っているのかもしれない、と自覚すること。
それが、とても大切なことです。
「ある」という視点で見てみると、自分がそれをいままで結構与えてきたことがわかったりします。
カウンセリングでお話を伺っていても、「これがない、ない」と嘆いている方が、実はそれをずっと周りに与えてきていたと感じることは、非常によくあることです。
あなたが、ずっと欲しくてたまらなかったもの。
それなのに、いまあなたの手のなかにないもの。
それは、あなたの「才能」のありかを示してくれるのです。
今日は、「ずっと欲しくてたまらないのに、いまのこの手に無いもの」が持つ意味、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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