「才能」がゆえに傷つく、ということがあります。
その心理的な背景と、その癒し方についてお伝えします。
1.ずっと欲しかったのに、手に入らないもの
先日の記事では、ずっと欲しかったのに、手に入らないものが持つ意味、というテーマでお伝えしました。
「ずっと欲しくてたまらないのに、いまこの手に無いもの」が持つ意味。 - 大嵜直人のブログ
小さいころから、ずっと欲しくてたまらなかったもの。
それがなくて、絶望したり、世の中を呪ったりすらしたもの。
そして、それがいまもって自分の手のなかに無いと感じるもの。
人によっては、それは自分の居場所だったりもするのでしょう。
ある人にとっては、それは安心感やつながりだったりするのでしょう。
またある人にとっては、それは温かい家庭だったりします。
またある人にとっては、それは異性からの関心だったりします。
そうしたものは、実は自分が持っている「才能」と非常に深いつながりがあるのでは、というのが昨日のテーマでした。
それはもうすでに自分が十分に持っているからこそ、周りからは与えられなかった。
億万長者に寄付しようとは、誰も思わないように。
このあたり、ある意味で非常に不条理であり、「なんで?もらえてもいないのに??」と感じるかもしれません。
けれども、「才能」の本質的な部分って、そうなんですよね。
2.持っているからこそ、与えられない罪悪感を抱く
「才能」がゆえに傷つく。
これは、カウンセリングでお話を伺っていても、非常によく出てくるお話です。
たとえば、あなたがものすごくきれいな水を、たくさん持っていたとします。
道を歩いていると、喉が渇いて飢えている人を見かけました。
水をあげることができればいいんだけれど、あなたはその水を自分が持っていることを否定し、かつそれを与えることを禁じているんです。
「ごめん、わたしには、与えられるものがないんだ」
と、その飢えた人の横を通り過ぎるとき…
ものすごく罪悪感を抱くと思いませんか?
ちょっと極端なたとえですけれども、「才能」がゆえに傷つくって、こういう感じなんですよね。
自分が持っているし、その価値を知っているんだけれど、それが欲しい人に与えられない。
それは、自分がそれを持っていないと思い込んでいる場合もありますし、与えることを無意識的に禁じている場合もあります。
あるいは、もし勇気を持って与えたとしても、それを拒否されたり、あるいはそれでも相手が満たされなかったりするときもあるのでしょう。
そうしたとき、深く傷つき、「役に立てなかった」「助けられなかった」と、強い罪悪感を抱くのです。
「才能」とは、ポジティブなものです。
ただ、それゆえに傷つくこともあるのも、「才能」なのでしょう。
3.与えてこそ、癒される
この対処法は、「与える」ことに意識を向けること、それに尽きます。
わたしがずっとないと思っていたものは、どうやらわたしのなかにあるらしい。
そして、どうやらそれは「才能」と呼ばれるものらしい。
そうだとしたら。
この「才能」を、誰に、どうやって与えようか。
そう意識を向けることで、「才能」を輝かせ、そしてその罪悪感を癒していくことができます。
もちろん、そこには葛藤も生まれます。
「なんで、いままで誰にも与えてもらえなかったのに、自分が与えないといけないの?めっちゃ不公平じゃん!」
そう思われるのも、当たり前です。
不満や言い訳も、わんさか出てくると思います笑
ただ、この意識は言ってみれば「依存」なんです。
ここから「自立」に意識を変えていく必要があるんですよね。
自分の足を地につけて、しっかりと立つこと。
「もらう」という意識から、「与える」という意識に変えていくこと。
それは、少ししんどいかもしれないですし、一定期間、がんばることが必要にもなります。
ただ、そのプロセスの中で、あなたの「才能」は開いていくのです。
今日は、自らの「才能」ゆえに傷つく、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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