先の週末で、私の住んでいる名古屋の桜も、満開宣言が出ました。
東京の開花が異常に早かったようでしたが、名古屋は例年よりも少し早いくらいになったのでしょうか。
さて、せっかく桜が満開になったのに、見計らったかのように、雨の週末でした。
桜の花は、やはり青空の下でこそ映えるように思うのですが、なかなか気持ちよくお花見もできない週末になってしまいました。
この雨で、花が散ってしまわないといいなぁ、と思うのです。
それでも、なんだかもったいない気がして、傘をさして散歩がてら、桜の花を観に行く私でした。
雨の下でも、桜の花はその美しさを失わず。
雨の雫に濡れる桜もまた、いいものでした。
そんな桜を眺めながら。
別れ、について考えていました。
美しく咲いた桜も、いつかは散ってしまいます。
散らない桜など、ありません。
そうだとするなら、なぜ毎年、桜は咲いてくれるのか。
それはとても健気なように見えて、それでいてどこか切ないものでもあります。
散るために咲くのか。
咲くために散るのか。
そのどちらも真実なような気がします。
人と人もまた、同じようなことなのかもしれません。
永遠に一緒にいられる、ということはなく。
出会いとともに、別れもあります。
桜の花が散るのは、分かりやすいのですが。
人の別れというのは、どこか曖昧なものです。
別れた恋人も、いつかよりを戻すかもしれません。
環境が変わって会わなくなった人も、またどこかで会えることがあります。
一緒に仕事をしていた人が、違う仕事をすることになっても、また再会するかもしれません。
そう考えると、死別というのが、唯一絶対的な別れなのでしょうか。
そうでもないように感じますし、そう思いたくもない私がいます。
以前に、墓参りに行ったときに、不意に声をかけられたことがありました。
亡くなった祖父と、生前お付き合いのあった方でした。
「あんた、〇〇さんとこのお子さんかね、よう似てらっさる」
年配のその女性の方は、そんなことをおっしゃっておられました。
いやいや、子どもにしては若すぎますよ、孫なんです、と訂正してもまったく意に介さず、「〇〇さんの若いころと、よう似てらっさるなぁ」と笑っておられました。
その方が見ていたのは、私なのでしょうか。
それとも、祖父だったのでしょうか。
亡くなった祖父は、いまもどこかで笑っている。
そうでなくても、私のなかに祖父の生きた証が、息づいている。
そう信じていたい、私がいます。
今年の桜は、もうあと一週間もしないうちに、散り始めるでしょう。
ひとつの別れ、といえるかもしれません。
だからこそ、この一瞬の美しさを目に留めなくては、と理性はささやくのですが。
案外、心の奥底ではそう思っていなくて。
きっと、また会える。
願い、ともいえそうなその想いの方が、肌感覚としては近いのでしょう。
だからこそ。
今日、この日に会えたあなたを、忘れたくないんです。
雨に濡れる桜に、そう語りかけていました。