先日、このブログを読んでいただいている方から、ご感想をお送りいただきました。
日々のブログの更新を読んでいただいているとのことで、ありがとうございます。
私自身も、道に迷い、自分が分からなくなり、混迷のなかにいたとき、日々更新されるブログの言葉を楽しみにしていました。
なんというか、そのブログを読んでいるときだけが、こう、自分の時間というか、そんな感じがしていたんですよね。
混迷のなかにいるとき、どうしても目に映るできごとに、感情も思考も奪われてしまいがちです。
けれども、そのブログを読んでいる時間というのは、自分だけの時間を持てているような、ある意味で「居場所」のように感じていたのかもしれません。
もし、私のブログが、同じようにお役に立てていたのなら、これほどうれしいことはありません。
あたらめまして、ご感想をお送りいただきまして、ありがとうございました。
私がそのブログを楽しみにしていた当時というのは、個人ブログの全盛期?で、更新を楽しみにしていたブログもいくつかありました。
ただ、表現方法がブログ(文章)から、動画や音声といったものが主流になっていくにしたがって、更新が止まってしまったブログがほとんどになってしまいました。
言葉だけよりも、動画や音声、音楽といったものと一緒に伝えた方が、より多くのことを伝えられるのでしょうから。
ただ、どうも動画や音声って、私の性に合わないんですよね。
なんというか、時間がコントロールされるのが、苦手なんです。
「いや、早送りしたらいいじゃん」となるんですが、それもなんだか、ねぇ笑
なんというか、文章って、自分のペースで読み進めることができるから、私は好きなのかもしれません。
その時間だけは、誰にもコントロールされない、自分だけの時間。
読み進めてもいいし、ゆっくり噛み締めるように読んでもいい。
それが、好きなんでしょう。
そんな時間がつくりたくて、私は日々こうして文章を書き続けているのかもしれません。
ただ、言葉という表現は、目の粗い表現方法だと思います。
孔子、ブッダ、イエス・キリスト。
いずれも偉人とされる存在ですが、そのいずれもが一つの文章も残しませんでした。
書かれたものを残すことの危うさを、認識されていたのでしょう。
それだけ、言葉というのは曖昧で、目が粗く、そして誤解を生む可能性がある表現方法なのかもしれません。
その目の粗い表現方法のなかで、言葉の順番を変えたり、比喩を使ったりして、なんとか表現をしようとする試みが、言語表現なのでしょう。
ある意味で、制限のなかでの表現が、言葉なのかもしれません。
ただ、その粗い表現である言葉だからこそ、伝えられるものがあります。
私が、ブログのなかの言葉に、希望を見たように。
その制限のなかで、伝えられるものを、これからも探して、磨いていきたいと思うのです。