愛されるための「条件」を、私たちは設定してしまうものです。
けれども、本当に愛してほしかったのは、そうした「条件」から外れた自分ではないでしょうか。
1.過去の痛みと向き合うときに大切な視点
昨日は、過去の痛みと向き合うときに大切な視点、というテーマでお伝えしました。
過去の痛みと向き合うときに大切な視点。 - 大嵜直人のブログ
自分を愛する、受け入れる、肯定する。
どこでも大切なこととして言われることですが、なかなか難しいのは、そこに何らかの「条件」をつけてしまうからだったりします。
「勉強ができたら」
「誰かに認められたら」
「愛想をよくしていたら」
などなど、なんらかのハードルを設定して、それを越えることができたときに、自分を受け入れ、愛することができる。
けれど、そのハードルを越せなかったときには、それは正反対の自己否定になって返ってきてしまうわけです。
これだと、しんどいですよね。
こうした「条件」をつくっているのは、過去のできごとや経験からくる痛みです。
だからこそ、過去の痛みと向き合うのは大切なのですが、そのときにその経験を「悲しい物語」として見てしまうと、自分自身を含めた登場人物を否定してしまうことになります。
そうではなくで、そのできごとを「愛の物語」に捉え直していくこと。
それがまさに「癒し」であり、過去の痛みと向き合うことなのでしょう。
2.どうしたら愛されるか?の研究成果が「条件」
さて、こうした「条件」は、表現を変えると、「どうしたら愛されるか?」という研究の成果ともいえます。
その研究は、ある意味で生涯をかけてしてきたものであり、それだけに強固な観念となるものです。
こういう振る舞いをすると、嫌われる。
こういう表情をしていると、愛される。
こういう場面でこう言うと、疎まれる。
こう言うと、皆に愛される。
そうした経験の積み重ねと研究が、先ほどお書きした「条件」をつくるものです。
私たちは、誰かに愛されることを望みます。
それは、生まれ落ちて自分の力では生きていけない私たちの、本能的なものとも言えます。
どうしたら、愛されるか。
その研究を、生まれてからずっと続けているわけです。
その研究から導かれたのが、先ほどの「条件」になるわけで、私たちはその「条件」を満たさないと、と必死になるわけです。
3.本当に愛してほしかったのは、どんな自分だろう
言うまでもないことですが、この「愛されるか研究」は、自分以外の人を主軸に置いています。
だから、しんどくなるんですよね。
相手からどう思われるか、どう愛されるか、を気にするあまり、自分の行動や振る舞いを、制限してしまう。
でも、ほんとうはどうなのでしょうか。
もっとこう振る舞いたい、こう言いたい、という自分があったとしたら、それをずっと抑圧してしまうことになります。
それが、しんどいんですよね。
ずっと、仮の自分で生きているような。
ずっと、足かせをつけているような。
そんな、しんどさがあります。
先ほど書いた「条件」とは、どうしたら愛されるか研究という、他人から見られる視点で決めたものです。
しかし、本当に愛してほしいのは、その「条件」を満たさない自分自身だったりします。
勉強ができないわたし。
自分の好きなように振る舞うわたし。
言いたいことを言うわたし。
そんな「わたし」を、本当は愛してほしかったのではないでしょうか。
この欲求が満たされないと、いくら「条件」を満たした自分が愛されても、空虚なんですよね。
どこか、自分じゃない人に向けられた愛を見ているような、白々しさというか。
どこか、満たされない。
本当に愛してほしいのは、「そのわたし」じゃないのに。
そんな感情を抱いてしまったことは、ないでしょうか。
そこが満たされないと、「条件」をどんどん吊り上げる方向に走ってしまうこともあります。
そして、その「条件」を自分がクリアできなくなって、めちゃくちゃ自己否定のスパイラルに陥るという、自作自演になってしまう。
そうじゃないんですよね。
ほんとうに愛してほしい自分の姿を、ちゃんと自覚する。
そして、大切なのは、その姿を自分以外の誰かに愛してもらうことではなくて、「自分自身が」愛してあげることなんです。
「私だけは、どんなあなたでも見捨てない」
自分自身に、そんな言葉をかけてあげる。
まずは、そこからはじめましょう。

今日は、本当に愛してほしかったのは、どんな自分だったのだろう?というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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