「完璧でないと、愛されない」という観念は、多くの自立的な人が持っているものです。
この観念を持つに至る源泉と、その勘違いについて、お伝えしてみたいと思います。
1.完璧でないと、愛されない?
昨日の記事では、完璧でないと、愛されない?というテーマでお伝えしました。
「完璧でなくては愛されない」という観念を、どこから持ってきたのだろう? - 大嵜直人のブログ
私たちは成長していく中で、「完璧でないと愛されない」という観念を持ってしまうことがあります。
言い換えると、欠点や短所があっては、愛されない、という思い込みです。
「〇〇ができないと、愛されない」
「〇〇がないと、愛されない」
〇〇には、人によっていろんなものが入りますよね。
勉強だったり、スポーツだったり、愛嬌だったり…いろんなものが入ってくると思います。
けれど、残念ながら私たちは生身の三次元の身体を持った人間です。
完璧なんてことは、まずありません。
ミスもあれば、欠点もあるのが人間であり、私たちです。
完璧なものしか愛されないのであれば、ロボットかAIしか愛されないのでしょうか。
そうではないですし、むしろその逆ですよね。
不完全であるがゆえに、私たちは愛されるのです。
けれども、私たちが自立していくにしたがって、この「完璧でないと愛されない」という観念を持ってしまうことが多いものです。
昨日の記事では、そうした観念、思い込みを、どこから持ってきたのか、それについて向き合うことは、私たち自身を知るという意味でも、とても大きな意味を持つことをお伝えしました。
2.その根源は、愛されたい人からの拒絶
もちろん、この「完璧でないと愛されない」という観念の源泉は、人によってさまざまです。
母親との関係性のなかでの経験から、という人もいるでしょうし、学校生活のなかでのできごとから、という人もいるのでしょう。
それは、人それぞれです。
だからこそ、この源泉と向き合うことは、自分自身を知る上でとても意味があります。
しかし、今日はあえて、この源泉を一般化してお話してみたいと思います。
「完璧でないと愛されない」。
この観念を持つ原因というか、きっかけになるのは、「不完全な私が愛されなかった・受け入れられなかった・許されなかった」という経験ではないでしょうか。
自分ができてないと感じている部分。
誰かよりも、劣っていると思っている部分。
自分が欠けていると感じている部分。
そうした部分を、誰かから愛されなかったり、拒絶されたと感じた経験があったとしたら…
その経験があると、こうした法則を導きだすのも、無理はないのでしょう。
「不完全な私は、愛されない」
「完璧でないと、愛されない」
少し表現を変えると、こうした「完璧でないと愛されない」という観念をたどっていくと、そこには他人からの拒絶があるようです。
しかも、それはただの他人ではありません。
別に、自分の知らない人に拒絶されても、怒りは沸きこそすれ、そんなに傷つかないものです。
ただ、自分が愛してほしい人に拒絶されたら、それは絶望といってもいいような痛みを覚えるものです。
だから、愛の告白をして断られると、この世の終わりのように感じるんですよね。
そう、自分が愛してほしい人に拒絶されたからこそ、「うーん…じゃあ、完璧でないと愛されないんだ…!」という観念を強く持つのです。
3.拒絶したのは、どちらの方だったのか
そりゃ、そうですよね。
何か自分に欠けていると感じているところがあって、自分が一番愛してほしい人に、その部分を否定されたり、拒絶されたりしたら…
そりゃあ、「完璧でないと、愛されない」という思い込みを持つのも、無理ないですよね。
けれど、心の世界は、そう見えるところとは、裏側に真実があったりします。
ここで考えてみたいのは、「拒絶したのは、どちらの方だったのか?」という問いです。
え?それは、相手の方じゃないの?
そう思われるのが、当たり前だと思います。
けれども、「拒絶された」と感じるのは、実は「自分が」相手から遠ざかったときなんですよね。
相手の何がしかの行動や言動。
それを、「自分が」否定したり、受け入れられなかったときに、私たちは「相手が」拒絶したと感じるのです。
それが、真実なのです。
すごく単純化したたとえでお伝えしてみます。
テストで悪い点を取ってしまった。
わたしはダメだなぁ、と落ち込んでいるときに、母親から「なんでそんな点数とるの!全然勉強してないからでしょうが!」と怒られてしまった。
こうしたことが繰り返されるうちに、やはり勉強ができないと愛されないんだ、という観念を持つに至った…
さて、ここで「拒絶」したのは、どちらの側でしょうか。
わたし?母親?
普通に考えれば、母親ですよね。
ただ、よくよく心の織りなりを見ていくと、少し違う風景が見えてきたりします。
人は、愛されたい人から愛されないときよりも、愛したい人を愛せないときに、深く傷つきます。
もちろん、愛されないときに、傷つかないわけではありませんが。
もし、母親を愛したいのに、「自分を受け入れてくれない母親」を愛せなかったとしたら…それはとても深い痛みを感じるものです。
それは、愛したい想いの深さに比例して、深い痛みを感じます。
「拒絶」したのは、実は母親の方ではなくて、わたしの方だったのかもしれない…
もちろん、こんな単純化したたとえで、すべてが説明できるはずもありません。
「完璧でないと、愛されない」という観念を持つに至るプロセスも、人によって異なるのでしょうし、もっと複雑なのでしょう。
けれども、「もしかしたら、こうかもしれない」という視点を持つには、役に立つかもしれません。
その、「もしかしたら…」でいいんです。
「ひょっとしたら」で、構わないんです。
それが、「完璧でないと愛されない」という観念を、少しずつゆるめていくきっかけになるかもしれないのですから。
今日は、「完璧ではなくては愛されない」という観念の源泉と、その勘違いについて、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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