今週もまた、はっきりしないお天気の日が多かったですね。
先週に引き続いてなんですが、梅雨が近づいているんでしょうか。
まだギリギリ5月なので、もう少し気持ちよく晴れる日が続いてもよさそうなものですが、そこは人のコントロールできないところなのでしょう。
時候は、「小満」。
天地のあらゆる生命が満ちていく時期であり、植物にとっては陽の光を浴びながら、強く大きく成長していく時期でもあります。
七十二候では、「紅花栄(べにばなさかう)」から「麦秋至(むぎのときいたる)」。
紅花の花が咲き、麦が黄金の穂を実らせる時期です。
昔、歴史小説で「麦秋」という語を見かけ、辞典か何かで調べたところ、秋ではなく初夏のころだと知って、なんだか不思議な気分になったことを覚えています。
三国志だったでしょうか、「麦秋を待って戦をはじめる」みたいな表現だったと思うのですが、当時はこの初夏の時期が、穀物の収穫の時期だったのですね。
それはともかくとして、この「麦秋至」ですが、「秋」を「とき」と読ませるのが、すごく美しいですよね。
私の好きな時候の名の一つです。
流れゆく、移ろう季節に、名も何もないのですが。
ただ、その名があることで、なにがしか誰かと共有できるものがあるように思います。
このいま目の前の、流れていく初夏の一日は、名も何もない一日。
けれど、どこにもない一日。
この目の前の花は、ただそこにあるだけの花。
けれど、どこにもない、ここにしかない花。
けれど、どこにもない、ただ一つの花。
それを「紅花」と名付けることで、「麦秋」と名付けることで、「あぁ、あれのことね」と誰かに伝えることができる。
言葉とは、実に不思議なものです。
けれど、その名付けられた「紅花」は、「麦秋」は、私たちの目の前から離れてしまうのも、また一つの作用のように感じます。
この目の前の「紅花」は、世界中をさがしても、どこにもない花。
唯一無二の花、「この」紅花。
どこにもない、ここにしかない風が吹く、この季節。
ときに言葉は、そうした唯一性を奪ってしまうようにも思います。
ときに、言葉はいらないんですよね。
ただ、この目の前の花。
この今日という日、いまという一瞬。
それを、味わい尽くしたいものです。
さて、5月も終わりのようです。
少しずつ、蒸し暑さを感じるようになってきました。
無理せず、少しずつ、一歩ずつ。
今日もまた、どうぞご自愛くださいませ。