先日、昼間に車で走っていたときのことです。
私の住んでいる市内ですが、普段はあまり通らない道を走っていました。
見慣れない風景に、周りをキョロキョロと見回しながら、走っていました。
信号で停まったときに、前の方をふと見ると、建物の壁に吹き出しのような形で、文字が手書きの文字が一つずつ貼られていました。
「お」、「や」、「こ」、「う」、「こ」、「う」…?
「おやこうこう」。
「親孝行」。
その建物が保育園や幼稚園なのか、それとも養護施設なのか。
その判別をする前に信号は青になり、私はアクセルを踏みました。
親孝行。
見慣れない景色が流れていく中、そのフレーズが私の頭のなかをめぐりました。
あの建物は、保育園だったのか、それとも。
いずれにせよ、親子の絆にかかわる施設であることは、間違いがないような気がしました。
親孝行、おやこうこう。
突然の喪失を経験している私にとって、やはりそこは人生のキーストーンの一つではあるように思います。
ようやく薄れてはきましたが、「何も親に返せなかった」という想いは、ずっと持ち続けているように思います。
どれだけ時間があって、どれだけやり尽くしたとしても、そうした想いは消えないのかもしれませんが。
ただ、自分もまた親という立場になって、子どもたちが何か返そうとしても、「いらないよ」と言うだろうな、とは思うのです。
それは、謙遜や罪悪感から「いらない」のではなく、「もう、じゅうぶんすぎる」からです。
そりゃあ、一緒に生活していれば、小言も言いたくもなれば、心配もしたくもなります。
時には、衝突することだって、あるのでしょう。
けれども、もう十分なんですよね。
うまれてきただけで、もうじゅんぶん。
子どもたちが何をしても、しなくても。
もう、十分すぎるほどのものを、もらっている。
そう、思うのです。
自分の子どもにはそう思うのに、自分自身に対しては、なかなかハードルが高い。
そんなものかもしれませんよね。
いつだって、受けとるもの、与えるものは、非対称に見えるのです。
それが、自己価値の低さと言ってしまえば、そうなのでしょう。
自分の愛に、もっと価値を見てもいいはずなのです。
受けとる愛と、与える愛は、同じはずなのでしょうから。
けれども、それでも、やはり親は越えられないのです。
それで、いいようにも思います。
「お」「や」「こ」「う」「こ」「う」。
親孝行。
ふと目にしたそんな言葉は、私の胸のなかで揺蕩い、厚い雲の空へ消えていったようです。
窓を開けると入ってきた風が、どこか湿気を孕んでいました。
梅雨が、もう近いのかもしれません。