大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

白露、残暑と呼ぶにはあまりにも暑く。

時候は、「白露」に入りました。

その字のごとく、夜中に冷えた大気が、朝露となって草木に舞い降りるころ。

その露が白く光った粒のように見えるのが、その名の由来とされます。

七十二候では、まさにその光景を現した「草露白(くさのつゆしろし)」から、「鶺鴒鳴(せきれいなく)」に移り変わるころ。

秋の鳥とされるセキレイが、その鳴き声を響かせるころであり、いよいよ訪れる秋を感じさせる時候です。

 

…と、暦の上ではそうなのですが。

実際に私が住んでいる名古屋では、まだまだ暑く、夏のような日差しが続いています。

最高気温も、30度を優に超える日ばかり。

残暑と呼ぶには、あまりにも暑い日が続いています。

来週には秋分がやってきますが、暑さはおさまりそうにもなく。

「暑さ寒さも彼岸まで」という、よく言われる言葉が当てはまらなくなってきているように感じます。

そういえば、いつぞやの記事で、「夏は午前中の涼しいうちに活動を」みたいなことが、もう過去の常識になりつつある、と書いた記憶がありますが、気候変動とともに私たちの常識や生活習慣も改めていく必要がありそうです。

息子の小学校でも、「熱中症警戒アラート」が出ると、屋外での運動は中止になるようで、息子はブーブー言っております。

私も以前は、「そんな、大袈裟な」と思っておりましたが、ここ近年の暑さで、その認識を改めました笑

ほんと、真夏は屋外に出て歩いているだけで、「あ、これはヤバいな」という暑さを感じることが増えました。

雨の降り方にしてもそうですし、もう日本は気候帯が変わったように感じます。

いつまでも、昭和の夏の記憶のままでいては、いけませんよね。

旧い常識はアップデートしていかないと、何かと不都合が出るようです。

 

昭和の夏といえば。

ここ最近の日差しが、どこか私の小さいころの夏の暑さを想起させるのです。

考えてみれば、あの頃の気温は32度とか33度くらいで、35度とかになると「特別に暑い」という感じだったような記憶があります。

いまの真夏は、35度を超えるのが普通になってしまいましたもんね。

ただ、空の透明さとか、吹く風の湿気の低さだったり、そうしたものは「秋」なんですよね。

だから、どこか自分のなかの感覚が「あれ、これは夏なのか、それとも秋なのか」と、戸惑いを覚えるのです。

先に書いたように、残暑でもないんですよね。

 

人の思考や感情というのは、気候に大きく影響されるように思います。

もしそうであるなら。

季節の移ろいが、以前の四季とは変わっていくと、私たちの思考、感情、感受性といったものもまた、変わっていくように思うのです。

朧げな春があり、新緑と薫風があり、じめっとした梅雨があり。

抜けるような夏の青空があり。

秋の風があり、そして厳かな冬がある。

そうした四季の形が変わっていくとしたら、私たちの感覚は、どのように変わっていくのでしょうか。

季節のありようと、人のありよう。

その移ろいを、自分の感覚を通して、眺めていきたいと思うのです。

 

さて、残暑と呼ぶには、あまりにも暑い日が続いています。

夏の疲れも出るころです。

どうぞ、ご自愛くださいませ。