大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ほんとうに辛かったとき、あなたは一人だったのだろうか。

与えてもらえないから、誰も何もしてくれないから、私たちは「自立」の道を選びます。

でも、人生で最も辛くしんどいとき、私たちはほんとうに一人だったのでしょうか。

1.「自立」は必ず通るプロセスだから

昨日の記事では、「自立」は必ず通るプロセス、というテーマでお伝えしました。

「自立」とは必ず通るプロセスだから、そこで起きたことはすべて必要だったもの。 - 大嵜直人のブログ

私たちの心の成長モデルである、「依存ー自立ー相互依存」。

誰もが、自分は何もできない、誰かになんとかしてもらいたい「依存」の状態からはじまります。

生まれたばかりの赤ちゃん、小学1年生、新入社員のイメージですね。

「依存」は、相手に振り回されてばかりの、他人軸の状態といえます。

抱っこしてもらえるのも、何かを教えてもらえるのも、お世話してもらえるのも、相手次第です。

そこには、自分が欲しいときに、欲しいものがもらえない辛さがあります。

それがしんどいので、私たちは他人に頼ることをやめて、「自立」の状態を選ぶようになります。

「あなたがしてくれなくても、私が一人でやるから、別にいいもん」

そんな、ちょっと拗ねている状態が「自立」と言えるでしょうか。

「自立」すると、自分ができることは飛躍的に増えます。

しかしその反面、孤立したり、孤独を抱えたり、周りと争ったり、葛藤を抱えやすくなります。

カウンセリングで扱う問題の多くも、この「自立」の問題だったりします。

なので、「自立を手放しましょう」という話になるんですが、これがまた難しいんですよね。

その難しさの一つが、いままで自分がやってきたことを、否定するような感覚になるから、というのが昨日のテーマでした。

ただ、それは否定じゃないんですよね。

冒頭にお伝えしたように、私たちの心は「依存ー自立ー相互依存」へとプロセスをたどります。

なので、「自立」のプロセスは必要なものであり、そこで得たもの、経験などは、決して無駄なものではありません。

むしろ、それがあるからこそ、「相互依存」というステージに至ることができるものです。

2.「ずっと神さまに中指立ててきましたよね」

今日は、その「自立」から「相互依存」に至るところで出てくる心理を、もう少しフォーカスしてみたいと思います。

「自立」とは、「あなたがしてくれないんなら、もういらない。自分一人でやるから」という心理です。

言ってみれば、怒っているわけですよね。

助けてくれなかった、誰かに。

自分を一人にした、世の中に。

この怒りの裏には、「ほんとは、なんとかしてほしかった」という、依存的な心理が隠れています。

でも、それを表に出してしまうと、自分が自分でなくなってしまうので、決して出さずに、心のなかで期待するわけです。

言ってみれば、「自立」の状態とは、真の意味で自分の足で立っているわけではなく、どこかに「なんとかしてほしい」という期待を隠しているわけです。

でも、「期待は裏切られる」の格言の通り、その期待が成就することは、ありません。

それで、余計に怒って、「もう知らん!一人でやる!」となってしまうわけです。

この怒りの対象は、パートナーや両親といった近しい存在から、世の中や社会といった、大きな存在まで向けられるものです。

以前に、私がカウンセリングを受けたとき、この「自立」がテーマになったことがありました。

(まあ、ご想像のとおり、私がカウンセリングを受けるときは、だいたいがこのテーマなわけですが笑)

そこで言われたのが、

「ずっと、神さまに中指立てて、生きてしましたよね」

という言葉です。

「は?全然そんなことないですけど?」というのが、私の第一感でした。

「だって、神社とかで手を合わせてるし、年忌法要とかも欠かしていないし…それはないかなぁ」

…と、そんなことを呑気に思っていました。

まあ人間、自分でまったく自覚がないことを指摘されると、そんなものです笑

はい、ずっと中指を立ててきました笑

それに気づいたのは、カウンセリングを受けてからずいぶん時間が経ってからでしょうか。

3.「相互依存」の「依存」とは、謙虚さである

「どうして私を一人にしたんだ」

「私だけにしんどい想いをさせて、ひどい」

そんな怒りを、心の奥底に抱いていたんですよね。

別にそれが悪いわけでもなく、ただそう思わざるを得なかった、それだけのことだとは思いますが。

ただ、そうした怒りは、必ず外の世界に投影されます。

世界は孤独の風が吹きすさぶところであり、常に誰かと戦っていないといけない世界を、自分がつくりだすわけです。

まあ、できればご遠慮願いたい世界です笑

そうした怒りを抱くのは、悪いことではないと、先ほど書きました。

悪くはないんですが、「傲慢」なんですよね。

「自分がずっと一人でやってきた」

その考えが、「傲慢」なんです。

とてもイヤーな感じですし、認めたくないんですけれどね笑

繰り返しになりますが、それは「傲慢」だけれども、悪いわけではなく、そうせざるを得なかっただけです。

けれど、「自立」の先にある「相互依存」は、その「傲慢さ」を手放した先にあります。

「相互依存」の「依存」とは、「謙虚さ」なんですよね。

 

「FOOTPRINT」という詩があります。

有名な詩なので、ぜひ一度検索してみていただきたいのですが、この詩が表しているのが、今日のテーマの「謙虚さ」のように私は感じるのです。

人生でもっとも辛くしんどく、悲しいとき。

そのときを振り返ると、一つのあしあとしか残っていなかった。

「なぜ、自分は捨てられたのか」

そう、主に問うたところ、

「あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いた」

そうささやかれた、と。

 

あなたが最もつらく、悲しく、しんどかったとき。

あなたは、一人だけで歩いてきたと感じておられるかもしれません。

もしかしたら、捨てられたと怒りすら、感じておられるのかもしれません。

けれど、それはほんとうに一人だったのでしょうか。

こう書くと、「そうじゃないんだよ」という結論ありきのように聞こえてしまうかもしれないんですが笑

正解があるわけではないので、あなたがどんな答えを導いても、大丈夫です。

ただ、折に触れて、考えてみるだけの価値がある問いだとは思うのです。

わたしも、きっと問い続けるのでしょう。

今日は、ほんとうに辛かったとき、あなたは一人だったのだろうか、というテーマでお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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