大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

なぜ、運命はその人の一番大切なものを奪うのか。

今日は、「何かを失う」「何かを奪われる」ということについて、少し考えてみたいと思います。

何か結論がある話ではなく、私自身、書きながら考えを整理してみたいと思います。

1.大切なものを失うとき

カウンセリングのなかで、「何かを失った」というお話を伺うことがあります。

喪失、とも表現できるでしょうか。

当然、それは代替の効くようなものではなく、その人にとって一番大切なものだったりします。

大切にしていた恋人との別れ。

怪我や病気によって失われる、自身の健康。

愛する家族との離別。

仕事のような目に見えないものもあれば、住まいのように目に見えるものの場合もあるのでしょう。

そうした大切なものを失う辛さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。

ブログでも、私は「寂しさ」の感情を扱うことが多いものですが、それは喪失感とも密接に結びついているようにも思います。

カウンセリング的な見方をすれば、喪失とは死と非常に近く、それはまた再生と近いものでもあります。

言うならば、喪失とは、新しい自分、新しい世界の扉を開くわけです。

これは、喪失に限った話でもありません。

私たちが出会うさまざまな問題は、本来の自分に還るためのサインであり、一里塚です。

喪失もまたその一部なのですが、どうも私にとってそれは、簡単に納得できない何かがあるようなのです。

2.なぜ、運命はその人の一番大切なものを奪うのか

喪失も含め、問題は本来の自分に還るためのサイン。

そうだとしても。

「なぜ、そんなことが起こるんだろう」という、怒りというか、憤りに似たものが、消せないんですよね。

なぜ、運命はその人の一番大切なものを奪うのか。

なぜ、神さまはそんな大切なものを奪うのか。

どうして、人は失わなければいけないのか。

なんというか、その理不尽さを、「はい、そうですか」と受け入れられないんです。

もちろん、見方を変えれば、理不尽でもなんでもなく、すべては導かれている、と見ることもできるのでしょうけれども。

それでも…という、この「…」の部分が、なんともならないんですよね。

私自身、父と母を突然に失う経験をしました。

なぜ、血管のなかに小さな栓が詰まっただけで、父を奪われなくてはいけないのか。

なぜ、人の悪意によって、母を奪われなくてはいけないのか。

その病や、その人というよりも、理不尽さ、あるいは人間の悪意に、怒っているのかもしれません。

はい、私自身もまた、癒しの道の途上です。

それで、いいんですけれどね。

「もう完全に癒されてます」っていう方が、どこか嘘くさいじゃないですか笑

3.そもそも、持っていたのかな

いつも通り、話がいろいろ飛んで、まとまりのない私の文章です笑

ただ、その「なぜなんだろう?」という問いは、私の喉に刺さった骨のようです。

ちょっと表現がアレですね笑

その問いが、私にとっていつも気になる、考え続けていくテーマなのでしょう。

ただ、最近、「そもそも持っていたのかな」と思うことがあります。

たとえば、新約聖書の「コリントの信徒への手紙」のなかに、このような一節があります。

あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。

もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。

人と人の間を見れば、持っている者、持っていない者、いろいろいることでしょう。

それを、どうして自分の力で得たかのように、誇るのでしょう。

それらは、すべて与えられたものではないか、と。

自分の努力で得たように感じていても、それは同じです。

それは、与えられたものだ、と。

そもそも、持っていたものでも、ないのだとしたら。

それを、失うだの、奪われるだの騒ぐのは、筋違いで傲慢なのかもしれません。

ちなみに、この節の前には、この言葉があります。

いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。

偉ぶる前に、自分が与えられていた恩恵や愛の大きさに、気づきなさい、と。

もっと謙虚になりなさい、と。

ただ、そうはいっても。

なかなかすんなりとは肚落ちしないものです。

だって、にんげんですもの笑

その理不尽を嘆きたいときは、嘆けばいいのかもしれません。

怒りたいときは、怒ればいいのかもしれません。

なんか、いろいろ話が飛んで、いつもと同じような話になってきましたので、もう少し考え続けてみたいと思います。