一生のうちで、2度目を読む本というのは、どれくらいあるのだろうか。
「これはおもしろかった」、「これはよかった」と思える本に出会えたとして、2回目、3回目と折に触れて読む本に出会えることは、幸せである。
たくさんの本を読むことは、素晴らしいことだ。
そして、何度も読もうと思える本に出会えることは、本当に素晴らしく、また幸せなことだと思う。
それは、ページを開く私に合わせて、いつも新しい読書体験を与えてくれる。
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私にとって、北方謙三さんの「破軍の星」(集英社文庫)は、そんな何度も読んでいる作品の一つだ。
北方謙三さんは、浅田次郎さんと並んで私の好きな作家の方の一人だが、今までその書評を書かなかったことは、やはり好きなものへの照れや衒いというものがあるのだろう。
「武王の門」に続く、北方さんの歴史小説の二作目。
時は南北朝の混乱期。
建武の新政において、後醍醐天皇により陸奥守に任じられた北畠顕家。
公卿の名門に生まれながら、「麒麟児」と称され嘱望された文武の才を以て、六の宮(義良親王、のちの後村上天皇)とともに奥州へ着任する。
人心を掌握する統治を進める矢先、挙兵した足利尊氏討伐の綸旨を受け、奥州から遥か京へと討伐軍を進すすめていく…
国のありよう、民のありよう、そして理想や夢…そうしたものが、陸奥守・北畠顕家とその周りの武将、山の民・安家一族や忍びの者、そして足利尊氏・直義兄弟、斯波家長といった敵方の武将などを通して語られる。
その後に連なる「三国志」、「水滸伝」、「揚令伝」といった北方歴史文学の中の中核を成す、「滅びの美学」というべきものが、色濃く感じられる名作である。
滅びの美学。
登場する男が、いちいちカッコいいのだ。
そして、そのカッコいい男たちが、夢や理想を追い求め、あるいは義理や人情のために、懸命に生き、そして死んでいく。
そこかしこから、汗と血の匂いがする。
そうした生き方を、簡潔な文体で描かれている。
北方歴史文学における登場人物は、どんな立場の者であれ、夢だの理想だのに殉じて生き、そして死んでいく。
ある意味で、どの人物を見ていても、男性として「こう生きたい」と思わせられる。
そこに惹かれるのも、やはり男性は理想主義の傾向が強いからだろうか。
このあたり、先日書いた長渕剛さんの「しゃぼん玉」に寄せた「男の負け顔の持つ魅力」と絡むようで、おもしろいものだ。
女性からすると、「夢だの理想だの、そんなものは食えないじゃねえか」となるのだろうか。
それでも、やはり、夢だの理想だの語っている男のほうが魅力的に見えるのだろうか。
それは、よくわからない。
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タイトルの「破軍の星」とは、北斗七星の第七星のことであり、その指す方角は不吉だとされる。
物語の終盤で、足利尊氏軍と相まみえることになった陸奥守・北畠顕家は、破軍星が京を指しているのを眺めながら、それでも絶望的な兵力差の戦いに臨む。
顕信の言葉に、顕家は声をあげて笑った。酒でも飲みたいところだった。顕信も酒ぐらいは飲めるようになっているだろう。
陣中に酒はなかった。兵糧さえも不足している。
なにも言わず、顕家はもう一度冬の空を仰いだ。西を指した破軍星が、動くことはないような気がした。
北方謙三「破軍の星」p.437
このあたりの言い回し、表現、雰囲気…
まさに、「滅びの美学」であり、たまらなく惹かれるシーンである。
私はあと、何度このシーンを読むのだろうか。