2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧
「願い」が、どんな突飛なものでも。叶いそうにないものでも。バカにされ、批判されそうなものでも。ただ、それが自分のなかに「在る」こと自体を、認めてあげることだ。
早熟の天才というものが存在するのと同じように、時間を味方につける鬼才というものの存在する。偉大な先達に倣うべく。身体との対話を続けながら、その変化を楽しんでいきたい。それは、歳を重ねること、人生を楽しむことと同義なのだろう。
遥か30年以上も昔のオールカマーの思い出に寄せて、ウマフリさんに寄稿させて頂きました。
季節はめぐり、生命もまためぐる。いつかは、私も。そして、息子も。いつかは。土に、還る。
朝の空気の涼やかさ、そして清浄さ。空の透明度、高さ、そして行き交う雲の形。日に日に、秋の深まりを感じる。いつもの川沿いを歩くと、赤い彼岸花。もう秋のお彼岸も終わってしまったが、その赤い特徴的な姿を見せてくれていた。
「仕事の疲れは、仕事で癒すんだよ」コンサートマスターは、そうにこやかに答えてくれた。そんな世界があるのだ、と感心したことを覚えている。
「『通勤』っていう文化も、いつか『参勤交代』みたいな扱いになるときが来るんですかね」
なんでもない日は、だれかのとくべつな日。わたしのとくべつな日は、だれかのおかげさま。美味しい記憶は、どれもとくべつな日。
秋分日。調べてみれば、祝日の「秋分の日」としての意義は、「祖先を敬い、なくなった人々をしのぶ」ためだそうだ。太陽が真東から出て、真西に沈む日。夜の長さが徐々に長くなり、昼と夜が等分される日。流れる時に色などついていないが、どこか、区切りの…
つながりとは、豊かさの一つでもある。そして、豊かさとは。いまここにあること。ポジもネガも含めたこころの揺らぎを、慈しむことができること。
その一人一人に、それぞれの暮らしがあって、「その日」を生きている。けれど、その光景を眺めている私には、どうもそれが馴染まなかった。どこにも、入れない。どこに行っても、居場所がない。異邦人。帰り道の夕暮れは、どこまでも闇に沈んでいくように見…
見上げれば、空の青さ。その青さは、また一段と澄んで、高くなったようにも見えた。
痛みを、何かを通じて表現すること。そして、誰かと分かち合うこと。それができたとき、その「痛み」は、その人の手を離れて、あの日の空へ還すことができる。その瞬間に、「痛み」は昇華する。それが、ときに「才能」と呼ばれるものの正体なのだろう。
さて、断酒して685日目である。1年と10か月。長いようで、短いようで。はじまりは、2018年の11月3日だった。よく覚えているのは、旗日だからだろうか。
「『いいね』を押したあなたが、そこにいたことが、アタシは嬉しいんです」
痛みと、怖れ。もしも、そうしたものを感じるのだとしたら。それは、何かに近づいていることの証なのかもしれない。その何かは、蜂かもしれないし、もしかしたら蜂蜜かもしれない。
寂しさを覚える、秋の夕暮れ。けれど。たしかに、そこには、在ったんだと思う。それは、ただ、在った。変わらず、そこに。ただ、在った。
久しぶりに見た、レギュレーターハンドル。ずいぶんと、懐かしい心地がした。その懐かしさが、父の車の記憶だと気づくのに、しばらくかかった。父が乗っていたセダンの窓もまた、このレギュレーターハンドルだった。
「おとう、トントンして」めずらしく一緒に寝る、と言って隣にきた息子がそういう。娘に比べて、寝つきが悪いのは赤子の頃からずっとだが、それにしてもその夜は寝付くのが遅かった。
根本裕幸さんの新著「ギリギリまで我慢してしまうあなたへ『逃げる技術』」(徳間書店」)の書評を。「逃げる」とは、今いる場所を一度引いて俯瞰して眺めてみること。新しい場所で新しい価値観に触れること。そんな「逃げる技術」を、本書は教えてくれる。
京都の名勝に、「哲学の道」がある。私が訪れたのは、母と二人で京都を観光した際のことだっただろうか。なぜ、私と母の二人だったかの経緯も、覚えていない。ただ、とても、静かな小径だったように覚えている。
全体の、バランス。最大多数の、最大幸福。それを考えるものまた、長所であり才能の一つなのだろうけれども。時に、それを崩すのも、必要なのかもしれない。
記憶は、頭の中のどこか片隅にある。感情は、心の中のどこかやわらかい場所にある。本当に、そうだろうか。
気付けば、夏が過ぎ行く。秋が、訪れる。どこか、寂しさとともに。どこか、ほっとした感じとともに。
さて、断酒してから674日目である。月数にすると約22か月目、もう少しで丸2年になる。
流れのままに。任せて、委ねて、預けて、そのままに。
激しくなったかと思えば、時折緩やかになり。その緩やかな雨の音は、どこか旧い記憶を呼び起こすようだった。
いつものコースを走り、いつもの休憩場所に着く。息を整えながら見上げた月は、どこか微笑んでいた。
日中の外気が、明らかに変わった。夏のうだるような、思考が止まるような熱気はそこにはなく、どこか芯のない暑さだった。
長月。夜が徐々に長くなるから夜長月、そこから長月という説が有力らしい。空を見上げれば、澄んだ色が広がる。地に目を移せば、微かに咲いた花弁がしおれていた。枯れる、長月。