2019-08-01から1ヶ月間の記事一覧
「結局、アタシは何かに依存しないと生きていけないのかも。でも、誰しもそうなのかも」
根本理加さんの『Crystal Bowl Resonance』発売を祝して。
感想を頂くために必要なこと。それは、感想をたくさん送ること。感想を送ることで、自分は何に反応し、何に心動かされ、どのように感動したのかが明確になる。
人には、一人になる時間が要る。それは私が男性だから、なのか、それとも人類共通の資質なのか。それは分からないが、思いがけず与えられた往復5時間の孤独を、私は有り難く受け取った。
福井県勝山市にある、福井県立恐竜博物館を訪れた。訪れた目的は、同施設の野外恐竜博物館でできる化石の発掘体験を息子としたかったのだ。
処暑を過ぎて。雲の形が、変わった。人知の及びのつかぬ怪物のような入道雲は姿を消し、いつしか切れ切れになった秋の雲が流れている。
子どもとのコミュニケーションの中で、彼らの言うことをまず「オウム返し」することが、子どもの自己肯定感を育むのではないか、と最近つとに感じる。そして、それは子どもに限らず、全てのコミュニケーションにおいてとても有効な方法論のように思う。
ここでブログを書き始めて、丸2年が経ちました。おかげさまで、毎日更新を絶やすことなく今日まで来れました。
何があっても、青空がなくならないように、あなたの「価値」もまた、なくならない。ただ、それに気づくだけ。
「自己価値」と「自己肯定感」について。どちらも自分という唯一無二の存在を生きるために大切な要素であるが、その関係は「車の両輪」というよりも、「根っこと花」の関係のようである。すなわち、「自己価値」のベースになるのが「自己肯定感」である。す…
好きなことをして生きていく。その生き方は、「好きなことのためなら、嫌なことでも何でもする」という、好きなものを持つことによるエネルギーによって支えられるものなのかもしれない。
「お盆休みって、なんでこんなに短いんですかね。小学生だって40日くらいあるじゃないですか。それなのに、大人はこんなに短いなんて、おかしいですよ」
短い札幌の夏を彩る、札幌記念。平成9年のエアグルーヴの思い出に寄せて、競馬ブログ&WEBフリーペーパー「ウマフリ」さまに寄稿させて頂きました。
向日葵が、好きだ。その美しさは、お盆過ぎの少し秋の気配の感じる青空の下で眺めると、殊更に映えるようだ。
線香花火は、どうしたって感傷的になる。
「断酒」というもの、たまたま「いままでの私」に合っていたから続けられているだけで、そうでなかったかもしれないし、これからどうなるかは分からない。それは、「いま、自分はどうしたい?」と問い続けることなのだろう。それを続けていると、どんどん自…
1本のオクラを通じて、小さな先生は人生の黄金律を教えてくれるようだ。「結果」はあくまでオマケ。「プロセス」という熱の中に、人生の果実は生るんだ。
遠くで、ツクツクボウシの鳴く声が聞こえた。私は過ぎ行く夏を惜しんだ。
感じきれなかった感情は、心の奥底で感じられるのを待ちながら、眠っているという。その場所は、ふだんは閉じられている心の深い場所なのだろうけれど、それは物理的な場所の場合もあるように思う。忘れられたその感情は、静かにその場所でひっそりと、来る…
今日は、私の39回目の誕生日でした。SNSやレターポット、手紙を通じて、たくさんのお祝いのメッセージを頂きました。ありがとうございました。
私も御多分にもれず、お盆休みの期間に入っている。けれど、いつもと変わらないテンションで日々が過ぎて行っている。
結果を変えようと思ったら、行動を変えるしかない。そしてまずは、その行動をする「余白」をつくらないといけない。
気付かない間に、無理は慣れてしまうもの。そして慣れてしまうと、当たり前になってしまうもの。それを気付かせてくれるのは、「痛み」。
歴史上の名言に想いを馳せる、秋立てる日。 陽中の陽たる夏至から、少しずつ陰に向かってきた季節が、はっきりと秋へと切り替わる日。
名曲中の名曲、「Over」。歳を重ねても、私はことあるごとに聴き続けるように思うのだ。
緩んでふっとした瞬間に、在りし日の故人の声が聞こえる。なんだ、ここにいてくれたんだ。それは、故人がいなくなってしまったわけではなく、いつもどこかで一緒にいることの証明のように思えるのだ。
「お金」も「才能」も、誰もが「ある」ことを望むし、それが「ある」に越したことはない。されど、それが「ない」ことが、やりたいことの障壁になるかと言えば、必ずしもそうは言えないのではないか。「お金」と「才能」は似ている。
アスファルトから立ち上る熱気は、湿気を含んで殊更暑かった。夏、本番だな、と思った。
誰かにしてほしかったことは、誰かにしてあげることで、癒されるようだ。
さて、断酒して9ヵ月が経過した。最近は、「一緒に過ごす人に、私は何を与える人になれるだろうか」ということを考えるようになった。