2020-03-01から1ヶ月間の記事一覧
ただ、その人であるだけ。その歩く姿に滲み出るものこそが、個性と呼ばれるものなのかもしれない。歩くことと、書くことは似ている。
雑巾がけ。あるいは、五体投地。不安なときや、心が揺れるときは、地に足…に加えて、手をつけてみる。目線をぐっと下げてみて、無力で、矮小で、どうしようもなく、ただ祈り願うことしかできない私が、そこにいる。
やりたいことに、わがままであれ。好きなことに、愚直であれ。理に、流され過ぎることなかれ。そして、童心を、忘るることなかれ。小さな施工主からの教えを、私は再度反芻する。
目の前のものは、移ろいゆく。けれど、いま、この目の前にあるものは、変わらない。それは、「いま」という刹那は、永遠あるいは不滅と同義だからだ。桜を、花を、季節を見つめることは、それを教えてくれる。
どうやったら苦手な相手をやり過ごすことができますかね、と彼女は言った。
SNSで、たいせつな友人の方が、玉置山の画像をアップしたのを見てしまった。私のこころは、そぞろに。一年前に訪れた、あの玉置山へと飛んで行ってしまった。
七十二侯では今日から「桜始開(さくらはじめてひらく)」に入った。暖冬のせいか、各地で開花しているようで、SNSを賑わせている。先日、私も咲いているのを見つけたあの桜の木は、そろそろ三分咲きくらいだろうか。
ナビなしで走ってみるのも、たまには悪くない。「道に迷う」ということは、人間にしかできないことなのだ。そして、その道中で、忘れていた愛のかけらを見つけることもあるだろう。
もしも、心に痛みを感じるときは。それは、傷ついた心が、前よりも広く深くなろうと、再生しているときかもしれない。痛みは。成長がゆえに。
変化や成長は、それを見つけようとするときにだけ、その姿を見せる。それは、幸せや安らぎ、愛といったものと同じなのかもしれない。
昨日の春分の日を過ぎて、また一つ春らしくなってきたようだ。少し前に立春がどうのと書いていたような気がするが、時の流れは早い。立春、雨水、啓蟄、そして春分へ。その陽気に誘われて、近所の川沿いを走る。
春の陽気というのは、なぜあんなにも、人をぼんやりとさせるのだろうと思う。それでも、陽が沈んだあとの風は、やはりまだ冷たい。そんな日の夜に、刈谷市の「魚屋ごんべえ」さんを訪れた。
おめでとうございます。そして、ありがとう、ジュンコさん。あなたのおかげで、ここまで来れました。
身体の、色。血の赤色や、肌色といった暖色系の色。青い色は、それと離れているのに、なぜ見ていると落ち着くのだろう。不思議だけれど、青い色が好きだ。
「でもさ、あれだけ自由を愛するフランスが、最も大胆な封じ込め策に出るとは、なんなんだろうな」「まあ、あれじゃないですか。最も偉大な自由は、最も強固な制約から生まれるのかも」
お酒が、桃源郷をもたらしてくれるわけではない。断酒が、追い求めた理想郷なわけでもない。そのどちらであるかは、たいして重要ではない。飲んでも、飲まなくても。私は、ここにいる。
自らがどうあろうとも、進むときは勝手に流れ、留まるときは何をしても淀む。それは美しく、訪れる。ちょうど、春になれば桜が咲くほどの自然さと、美しさをもって。流れと、よどみ。
忘れるためには、ふるいにかけられ、そして仕舞われないといけない。私たちは、忘れるために仕舞い、思い出すために忘れるのだ。
古来より、私たちはそれらの花たちを愛で、その微笑みに癒されてきた。桃始笑。何とも美しいこの言葉で、春を愛でよう。
ただ、そこに愛があっただけなのだろう。罪悪感の大きさと、同じくらい深い、愛が。
母を想うとき、私は不在を想う。それは、母そのものの不在でもあり、もしかしたら、母とともにいたはずの自分の不在なのかもしれない。
冷たい雨は、変わらずアスファルトを濡らしていた。3月10日が、流れていく。
資質や才能の恩恵とは、自由であることと言えるのかもしれない。 まずは、自分の資質や才能がどこにあるのか、自覚することが始まりではあるのだが。
『流れ』がいいときも、『流れ』が悪いときも、できることは、身を任せることだけかもしれない。
加藤登紀子さんの珠玉の名曲、「時には昔の話を」に寄せて。加藤登紀子さんは母がよく聴いていて、実家に何枚かCDが転がっていたことを思い出す。
いったい、記憶というのは、人間だけのものだろうか。このキリンのモニュメントや園庭、道路や、あるいは空や星も、その記憶を持っているのではないだろうか。ふとしたときに、それらが持つ記憶というものが、ふっと立ち現れるような気がする。
すごもりむしとをひらく。虫も、とかげも、カエルも、巣穴から這い出てくる陽気。久しぶりに見る春の光と、まだ少し冷たさの残る風を浴びて、生きものたちは大きく伸びをするのだろう。
「紙がないなら、葉っぱで拭けばいいじゃない」
娘、という存在は、男親にとって特別な存在だ。息子とは、「だいじ」のベクトルが違う。それは、他のどんな関係性とも違う「だいじ」なのだ。
寒と暖のあいだに、陰と陽のあいだに、怖れと愛のあいだに。潤いと、恵みと、喜びを。催花雨に緑は萌え、春は訪れる。