2021-06-01から1ヶ月間の記事一覧
気づけば、水無月も終わり。ということは、2021年も半分が終わり。まったくもって、早いものです。そう聞くと、少し寂しくなったり、焦ったりもしてしまいますが。季節は変わらず、流れていくようです。
やった方がいいけれど、やらなくてもいい行動。それをできるかどうかが、いまの状態を教えてくれるようです。
ここのところ、心騒がせていた原稿を、ようやく今朝納品した。 脱稿の解放感と、虚脱感と。何度味わっても、慣れないと思う。 満足感と同じくらいに、もう少し書けたのではないかという思いが去来する。
2021年、宝塚記念。昨年に続いて連覇を決めたクロノジェネシス。強かったの一言。何はともあれ、どうか、無事に秋を迎えてほしい。
断酒967日目。もし、私の寂しさとライフワークがコインの裏表だとしたら、お酒はそれを接着剤のような役割を果たしていたのではないか。そんなことを考えるのです。
依頼された原稿があったのだが、先方から依頼されたテーマとは違うテーマで書いてしまった、というあり得ないミス。それは、私の名前が世に出ることへの強烈な怖れを教えてくれた。
依頼されていたテーマを取り違えて、原稿を書いていたようです。久々に、ピンチを迎えております。
Thinkpadが気に入っている。赤ポチ、偏愛。これからも、長く使っていこうと思っている。
36.5度前後の、その温度。いつも変わらず、身体はその温度を示してくれる。生まれてこの方、一つの例外もない、その奇跡を想う。
夏に至る日と、冬に至る日と。 もしかしたら、見えているものとは、まったく逆のことが真実なのかもしれない。
夏空が、広がっていた。 明日は、夏至らしい。昼の長さのピークを過ぎるということは、ある意味で今日が陽の強さの盛りなのだろうか。 夏至前の空は、どこまでも青く、そして丸かった。
触れるという行為は、その対象に自分が愛を差し向けていると言えるのかもしれない。 時に、自分が触れるものに、自覚的になることも大切なように思う。
昼夜があって一日のように。陰陽があってものごとが満ちるように。完全も、不完全も。すべては、ひとつながりのもの。
時に芒種、梅子黄(うめのみきばむ)。 梅の実が熟して、黄色く色づくころ。 そろそろ梅干を漬けるのに適した梅が出回る頃でもある。
何か形のあるもの、具体的なもの、ことを与えるのではなくて。何にもないを、与える。それは、ある意味で最上級の「与える」行動のように思える。
過ぎゆく一日に、身を任せよう。 過ぎゆく雨に、身を任せよう。
無理に取り繕うことを、飾ろうとすることを、誰かになろうとすることを、あきらめよう。 うまくいかないと卑屈になることもない。いままでの自分の歩いてきた道程を、信じよう。
降るがままに、そのままに。 為すがままに。 しばらくそのままで、紫陽花とともに濡れていようと思った。
根本裕幸さんの新著「ふと感じる寂しさ、孤独感を癒す本」(清流出版)の書評を。なぜ、人は寂しさという感情を持つのだろう。その疑問に対する答えの一つを、本書は提示している。すなわち、誰かとつながるために、必要な感情なのだ、と。
どこか故郷の記憶は、晩夏と結びついている。故郷と、生まれた季節というのは、どこかつながっているのだろうか。
時に芒種、あるいは蟷螂生(かまきりしょうず)。昨年の秋に産み付けられたカマキリの卵から、たくさんの命が生まれるころ。そんな夕暮れは、黄金に染まるようだった。
断酒950日目になった。積み上げは、裏切らない。自己受容を、進めてくれる。
寂しさを、そのままに。 その愛を、流れ出るままに。 季節がめぐる、そのままのように。 ただ、そのままに。
さよなら。目を閉じていると、不意にその言葉が口をついて出た。また会おうね。もう一言、付け加えた。ナムナムと、息子はつぶやいていた。そして木の枝を拾って、墓標を立てていた。
2021年、安田記念。輝きを放ったダノンキングリーと川田騎手。462日ぶり、故郷に捧ぐ勝利、おめでとうございます。
紫陽花の美しさ、その不思議さを、みずみずしさを。いつも感じられる身体でいたいと思う芒種のころ、笑う紫陽花とともに。
飼っていたクワガタが冬眠から覚めた。冬眠とは、生命とは、なんと不思議なものだろう。 寒い冬をじっと耐えて待つ、その小さな身体を想う。死んでいるのか、生きているのか分からないような状態でも、たしかにそこに生命があったのだ。
いまこの瞬間の幸せに、過去がどうだったかは関係がない。同時に、過去のどんな満足や幸運や僥倖があろうとも、いまこの瞬間に不幸せになることもできる。選択する権利は、つねにいま、このわたしの掌中に在る。
鳥居をくぐり、参道を歩き、頭を下げ、手を合わせる。何もしないわけではない。老若男女、誰もが同じように頭を下げる。そのとき、人は誰にもならなくてもいいし、誰かにならなくてもいい。ただ、その時間が、心地いい。
肉体的、あるいは体力的な衰えというのは、やはり年とともに出てくる。それは一見ネガティブに思えることだが、そうばかりとも言えないようにも思う。逆に大きな恩恵を与えてくれることもある。