大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

エッセイ

満開の木蓮の花は、暗がりを照らす白き灯篭のように。

私の大好きな木蓮も木も、その花を見事に咲かせていました。ほんの数週間前は、固い蕾に覆われていた無数のそれは、いま白き炎のようになり、冬の暗がりを照らしているようです。

春寒の球音に、なにか、すてきなことが起きそうな予感を乗せて。

弥生という言葉には、似つかわしくない寒の戻り。そんな3月のはじめ、バンテリンドームへ野球観戦に行ってきました。

弥生の熱田さんは、やわらかな光のなかに。

風があたたさを含むようになったと思ったら、また寒風が吹く。それを繰り返しながら、春は訪れるようです。そんな、弥生のはじめ、熱田神宮を参拝することができました。

降り続く雨の日々にも、空を見上げる時間は必要かもしれない。

空を見上げること。何かを見上げること。それは、降り続く雨の日々にあっても、大切なことのようです。私たちを自然に笑顔にしてくれるようですから。

「歩く」という行為の不思議さと、引き寄せについて。

類は友を呼ぶではないですが、好きなことをしていると、同じ波長の人が引き寄せられるようです。やはり、好きなことをすることは、大切なようです。

如月の熱田さん、冬の雨は暖かく。

睦月が過ぎ去り、ゆるりと如月がやってきたようです。まだ最も寒い時候なれど、季節の分かれ目、節分ももうすぐ。そんな如月のはじめ、熱田さんを訪れることができました。

春を待ちわびるようになったのは、いつからだったか。

春を待ちわびるようになったのは、いつからだったでしょうか。それは、変わりゆく自分と、変わらない自分と。そのどちらもを愛でるように、なってきたからなのかもしれません。

紅い梅の花を見た日。

紅梅。梅の花。この冬、はじめて咲いているのを見たでしょうか。 いつもは2月の声を聞くころに、咲くような気がするのですが、ずいぶんと早い開花のようです。

睦月、祈りの熱田神宮。

ただ、祈らずにはいられない、2024年の年明け。熱田神宮に、参拝をしてまいりました。

2024年に、希望を乗せて。

新年あけまして、おめでとうございます。あなたさまの2024年が、希望に満ちたものでありますよう、お祈り申しあげます。今年もどうぞ、よろしくお願い申しあげます。

2023年に、感謝を寄せて。

今年も1年間、ありがとうございました。あなたさまの2023年に、深く感謝を。そして、あなたさまの2024年に、大きな祝福を。

あなたの今日もまた、サンタクロースの袋の中身をつくっているから。

時が流れ、季節がめぐり。プレゼントをする人は、現れては消えていくでしょう。けれども、サンタクロースの白いプレゼントが詰まったあの袋の中身をつくる人が、そこにいつもいるように思うのです。

山茶花の咲くころ、野山の生きものたちが眠りにつく姿を想うころ。

野山の生きものたちは、眠りについたのだろうかと想い。そして、過ぎゆく年と、未だ来ぬ年を、想い。師走の一日は、過ぎてゆくようです。

なんにもしないをしに行く、師走の熱田さん。

早いもので、2023年も最後の月になりました。お師匠も走るという、師走。そんな12月に、また熱田さんを参拝することができました。

光、風、色。深く呼吸するために、必要なものたち。

頭上から注がれる、陽の光。この頬に感じる、秋の風。そして、植物の色たち。そうしたものを眺め、感じていると、それだけで満たされていくものがあります。人には、必要なのでしょうね。光と、風と、色が。

いつか、どこかで、この言葉たちが、あなたの心をあたためることができたなら。

ただ、ご感想で「筆を止めないでください」と励ましをいただきました。ありがたい限りです。これからも、書き続けていきたいと思います。

霜月、いつものように熱田さんで祈りを。

今年もあと2か月になりましたが、そんな霜月に、また熱田神宮を参拝して参りました。

秋陽に満ちた淀で、記憶と情感にふける日。

リニューアルした京都競馬場を訪れました。以前に訪れたときの記憶と情感にふけりながら、癒されてきました。

書評:根本裕幸さん著「戦闘力が上がりすぎてひとりで頑張っているあなへ 1日5分、スキマ時間にととのう本」に寄せて

私がカウンセラーとして師事しております、根本裕幸師匠の新著「戦闘力が上がりすぎてひとりで頑張っているあなたへ 1日5分、スキマ時間にととのう本」(ハーパーコリンズ・ジャパン出版、以下「本書」と記します)の書評を。

神無月の熱田さんは、湿り気とともに。

夏の延長線のような9月が終わり、気づけばもう10月に入りました。そんな神無月のはじまりに、また熱田神宮を訪れることができました。

満ちれば、咲く。

何も言わずとも、時が満ちれば、花は咲く。連綿と繰り返されてきた、その奇跡。私たちもまた、同じなのかもしれません。

痛みは、意識を「いま、ここ」に向けさせるから。

身体の「痛み」が、「いま、ここに注意を向けなさい」という肉体からのサインであるならば。心の「痛み」もまた、同じなのかもしれません。

長月の熱田さんで、秋色の空を見上げること。

時の流れに区切りがあるわけではないと思うのですが、それでも月が変わると感じるものが変わるようです。早いもので、もう9月になりましたが、熱田神宮を訪れることができました。

秋の訪れのなか、歩くことで思考を緩めること。

まだまだ日中は暑い日が続きますが、それでも朝晩はその暑さが緩むのを感じる時間が増えました。早いもので、気づけば時候も「暑さも止む」という「処暑」になりました。

「手段」ではなく、「目的」として歩くことについて。

この暑い夏の最中に、ウォーキングを始めてみたのですが、これがいろいろと楽しいので、今日はそんな肩肘張らないお話です。

無音の色をした空の下で、手を合わせること。

立秋を過ぎると、すぐにお盆がやってくる。立秋を過ぎた空は、夏の喧騒が徐々に遠ざかるように、静かだ。

葉月の熱田さんで、盛りと終わりを想うこと。

それにしても、暑い日が続く8月、葉月。時候は「大暑」、一年で最も暑い時期とされるのですから、それも当たり前なのかもしれません。そんな8月の始めに、熱田神宮を訪れることができました。

自分にできないことは、誰かに感謝するチャンス。

自分にできないことは、誰かに感謝するチャンスです。ノートパソコンにコーヒーをこぼしてしまった、私の失敗談から。

夕暮れ時の埋葬。

夕暮れ時、そのメダカを埋葬しに、近所の公園へと歩きました。「どうして、死んじゃうんだろうな」そう呟きながら、息子はオレンジ色に染まりかけの道を歩いていました。

文月の熱田さん、どこかで見た夏の日差し。

夏至も過ぎ、小暑も近づくころ。そんな文月のはじめ、熱田神宮を参拝することができました。