大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

やさしい心理学

「べき・ねば」と感じるときは、「本当はそうしたくない」、「誰かにやってほしい」という他人への依存心が隠れている。

「…するべき」と感じることは、私たちの心は疲弊するばかりか、周りの人にもそれを要求するので、関係性を悪化させます。そうした「べき・ねば」の裏にある心理と、その緩め方についてお伝えします。

「自立」の極みにいるとき、人には頼れなくても、祈ることができるのかもしれない。

「自立」の特徴として、「人を頼れない」というマインドがあり、それはしんどくて苦しいものです。その苦しさに光を見る視点と、誰かを頼るためのヒントについてお伝えします。

「感情」を感じることは、それだけで偉大な癒しであり、ヒーリングである。

「感情」を感じることは、もっとも基本的な癒しの方法です。けれども、私たちは「自立」していく中で、「感情」を切り捨ててしまうものです。そうしたプロセスと、「感情」の性質について、お伝えします。

イヤな相手との、心理的な「闘い」を終わらせるための処方箋。

心理的に誰かと闘っているとき。それに勝っても負けても、闘いは終わらず、その螺旋からは降りられません。その闘いを終わらせるための処方箋について、お伝えします。

他人からの非難がムカつくのは、自分がそこに罪悪感を持っているからであり、だからこそ自分にとって大切なものを教えてくれる。

他人から非難されて傷ついたり、怒りを感じたりするのは、自分自身もそこを責めていたり、罪悪感を持っているからです。だからこそ、それは自分にとって大切な部分であると見ることができます。他人の非難から、自分の愛を見つける視点をお伝えします。

「手で触れる」ことの奇跡について。

愛おしいパートナー、家族やペットといった大切な存在に「手で触れる」ことは、私たちに深い癒しをもたらし、つながりと親密感を生みます。それと同じように、自分自身に触れてみてはいかがでしょうか。

「罪悪感」と「無価値感」、それぞれを癒すための問いかけ。

まったく違うようでいて、実は近いところにある「罪悪感」と「無価値感」の心理。その心理を見ていきながら、それらを癒すための視点と問いかけをご紹介します。

本来の自分を思いだすために、自分の才能、価値、魅力を自覚し続ける、ということ。

本来の自分に近づくほどに、問題は小さくなり、ものごとがスムーズに流れはじめます。それは「近づく」というよりも、「思いだす」という感覚の方が近いのでしょう。そして、本来の自分を思いだすためには、自分自身の才能、価値、魅力を自覚し続けることが…

私たちを過去に縛りつける「未練」を手放すには、自分の愛に価値を認めること。

私たちを過去に縛りつけるのが「未練」ですが、それを抱くのは自分が愛されなかったときよりも、自分が愛せなかったときです。そして、「未練」を手放して前に進むためには、自分自身の「愛」に価値を見ることが大切です。

私たちはもともと「無垢」な存在であり、生きることはそれを思い出す旅である。

「無垢」であることは、愛する人にとってかけがえのない贈り物になります。「無垢」とは純粋さ、童心、無邪気さであり、私たちの本来の姿です。またそれとともに、行かなければならない場所を持たない、という意味でもあります。

「怒り」とは傷に触れた合図であり、怒っている相手には「この人は誰を愛したかったのだろう」という視点を持つことができる。

「怒り」とは、触れられたくない傷に触れたという合図です。それゆえ、相手が怒っているとしたら、「この人は、誰を愛したかったのだろう」と見ることは、相手のみならず、自分自身にも大きな恩恵を与えてくれます。

「ワーカホリック」の心理と、そこから自分のライフワークを考える視点について。

仕事とは、ある意味で刺激物です。自分の心のなかに、何か「足りない」と感じていたりする部分があると、私たちは「ワーカホリック」の心理にはまります。その心理をゆるめ、才能やライフワークを考える視点をお伝えします。

相手の美点を見つめ続けること、探し続けることは、自分自身をも癒してくれる。

過去の傷や痛みが、「判断」の心理を生み、それは分離間や孤独感によって自分を傷つけます。しかし、相手の価値や魅力にフォーカスし続けることは、自分自身を癒してくれるようです。

「愛」とは、時を止めることであり、永遠を生きることであり、天に柱を立てること。

「愛」とは、時を止めることであり、永遠を生きることであり、天に柱を立てることです。それは感情の一つである「愛情」とは異なり、真の意味で人が生きるための目的であり、人が人である所以です。

大好きな人が笑顔だと嬉しくて幸せになるならば、あなたの笑顔もまた同じである。

大好きな人が笑顔で幸せそうにしていると、私たちはとても満たされ、幸せを感じます。そしてその逆もまた、同じです。時に忘れてしまいがちな、その当たり前の視点をお伝えします。

「犠牲」の心理とそこに愛と価値を見る視点、そしてその処方箋について。

「犠牲」とは、誰かのために、自分が幸せではない行動を取ることを指します。それは、過去に満たされなかった欠乏感や無価値感が引き起こす心理なのですが、その処方箋とゆるめ方について、お伝えします。

自分を傷つけ、幸せを遠ざける「復讐」の心理を、愛の視点から見てみる。

「復讐」とは、自分を不幸せにすることで、相手に仕返しをしようとする心理をさします。そうした「復讐」をしたくなる相手を、愛の視点から見ることをお伝えします。

誰かを批判することが生む役割と犠牲の心理と、それを手放すための「許し」について。

誰かや何かを「批判」するたびに、「役割」と「犠牲」という副作用がついてきます。その根底にあるのは、何がいい/悪いという「判断」です。そうした「判断」の心理と、それをゆるめるためのヒントについてお伝えします。

「いまを生きる」とは、いまこの瞬間にある美を見つけ続けること。

私たちはよく、過去に生きようとしてしまいます。 その過去が、美しい思い出であっても、黒歴史であっても。 そうではない、「いまを生きる」とはどんなことなのか、考えてみます。 名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:…

誰かを「許す」ことは、自分の望みを叶えやすくしてくれる。

「許し」とは、ある相手やできごとを、主体的に100%受け入れることを指します。それは相手のためではなく、自分自身のためにする行為です。そうした「許し」の恩恵と、許せないときの考え方についてお伝えします。

「喪失感」と「創造性」は、とても近い場所にある。

「喪失感」とは、何かを失ったときに感じる痛みです。それは、私たちの生が儚いものであることを、思い出させるがゆえに、とても痛いものです。しかし「喪失感」と非常に近い場所に、「創造性」もあります。

「ドラマ」を求める心理と、それをつくったエネルギーをどこに差し向けるか、という視点。

退屈したり、生きることに倦んでいると、人間関係に「ドラマ」を求めたくなります。そうした「ドラマ」をつくるエネルギーを、どこに差し向けるか、という視点をお伝えします。

「ファンタジー」とは本来の自分を隠す包み紙のようだけれども、「与える」意識がそれをほどいてくれる。

「ファンタジー」を抱いていると、本来の自分を隠してしまう「包み紙」のなかにいるようなものです。その「包み紙」をほどいてくれるのは、やはり「与える」意識のようです。

「犠牲」は偽りの愛だけれども、愛であることに変わりはない。

「犠牲」は、相手の喜びのためにするけれども、自分にとっては幸せではない行動をしてしまう心理です。それは、偽りの愛だとされますが、それでも愛であることに変わりはないと思うのです。

私たちをラットレースに駆り立てる「罪悪感」を癒すには「くつろぐ」ことであり、それは自分を抑えないこと。

「罪悪感」があると、私たちはなかなか休んだり、くつろいだりすることができません。そえをゆるめたり、癒したりするためには、自分を抑えないことが一番のようです。

自分の中の見たくもない感情が、周りとの対立を生むが、同時に新しい自分もそのすぐ近くにある。

自分の中にある、見たくもない感情が、時に大切な人との対立をつくりだします。しかし、それは同時に、新しい自分自身と出会うチャンスでもあります。

「怖れ」の心理 ~心の防衛本能と、その対極にある「愛」について

「怖れ」とは、過去の傷ついた経験から、未来を予測する心の防衛本能です。それはまた、自分自身の内面にある攻撃性を、周りに映し出したものでもあります。そんな「怖れ」の心理について、お伝えします。

何を与えたかが残るならば、自分自身に与え続けることが大切。

振り返ってみたときに、何を与えてきたかが残ります。そしてそれは、周りの人に与えてきたものと同じように、自分自身に与えてきたものも含まれます。大切な人に与えるのと同じように、自分にも与え続けることが大切なようです。

自分に価値がないと感じると「犠牲」してしまうけれど、それは同時に「自分が前に出なくてもいい」というメリットがある。

「犠牲」とは、誰かのためという皮をかぶって、自分が幸せではない行動を取る心理であり、その底には「自分には価値がない」という想いがあります。それはしんどいのですが、一方でそれは、自分が前に出なくてもいい、というメリットがあるからのようです。

幸せとは「見つけるもの」ではなく「感じるもの」だから、感受性を開くことがとても大切。

「青い鳥」の童話にある通り、私たちはどこか別の場所に幸せを探してしまします。よく言われるように、幸せとは見つけるものでも、与えられるものでもなく、自分自身が感じるものです。