大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

やさしい心理学

「いまの」自分を受け入れることと、「甘え」の関係。

自己受容の大原則は、「いまの」自分をそのままに受け入れることです。しかし、ときにそれは「甘え」に見えてしまったりするものです。そんな自己受容と「甘え」の関係について、考えてみます。

「いまの」自分ができないことを認めるのは、自己受容の一歩目。

「いまの」自分をそのままに受け入れることは、自己受容において最も大切なことの一つです。たとえ、いまできなかったとしても、「じゃあ、それをどうするか?」を考えていくことができます。

いまの自分は、それを決められる自分だろうか?

何かに決めること、肚をくくることを「コミットメント」と呼びますが、そのためには、自分を受け入れ、許すことが必要です。何かの選択で迷ったときは、それを決められる自分になるまで待つことも、一つの方法です。

結果にこだわる「執着」、プロセスを楽しめる「コミットメント」。

「執着」していると、結果ばかりが気になって、いつも急き立てられる感じがするものです。一方で、「コミットメント」ができていると、そこに至る過程を楽しめるものです。結果ばかり気になるときは、どうやったらプロセスを楽しめるか?という視点を持つこ…

「執着」していると焦燥感があるが、「コミットメント」できているとそれが無い。

「執着」していると、結果にこだわり、焦燥感があります。一方で「コミットメント」には、それがありません。その心理の違いについて、詳しく見ていきます。

お酒を手放したときのこと。 ~決断に必要なのは軽やかさ、しなやかさ

何かを決めるために必要なのは、剛直さではなく、軽やかさであり、しなやかさです。私がお酒を手放したときの体験から、そんなことをお伝えします。

「手放す」ために必要なのは、強固な意志というよりは、柳のようなしなやかさ。

「手放す」ときに必要なのは、絶対に曲げない強固な意志ではありません。それよりも、柳のようなしなやかさで、選び続けることが、求められるものです。

執着を手放すための3つのステップ。

「手放し」とは、執着から自分を解放し、自由を与えることを指します。そうした手放しを進めるための3つのステップについて、お伝えします。

「手放す」と決めるのは自分自身だが、そのプロセスは自分一人で歩かなくてもいい。

何かに執着してしまうとき、それを「手放す」と決めるのは自分自身です。ただ、その手放しのプロセスは、自分一人であるかなくても大丈夫なんです。

「手放し」の恩恵は、過去を過去として区別して、いまに意識を向けることができること。

執着していると、私たちの意識は過去にとらわれてしまいます。「手放し」とは、相手やできごととの関係性を過去のものにして、いまに意識を向けさせてくれる心のありようです。

相手の幸せを願えること、そのできごとに感謝できることが、「手放し」ができているサイン。

「手放し」とは、執着から自分自身を自由にしてあげることを指します。「手放す」ことができると、その相手の幸せを願うこともできるし、そのできごとに感謝することもできるようになるものです。

その人を許すことで、私たちは癒される。

「癒し」とは、ものごとの見方がポジティブに変わることを指します。そこに至るためのプロセスを、「許し」と呼びます。

「許し」とは、誰かに教えられるものでもなく、頭で考えてするものでもなく、自分で気づくもの。

カウンセリングでの中核的なテーマに、「許し」があります。それは誰かに教えられるものでも、頭で理解してするものでもなく、自分自身で肚落ちして気づいていくものです。

弱音が吐ける場所は、誰にとっても必要なもの。

感情と同じように、「弱音」もまた、溜め込むほどに膨らんでしまいます。それを安全に吐き出せる場所は、誰にとっても必要なものです。

「感情的理解」とは、できごとをそのままに受け入れる強さであり、「許し」に至るもの。

「許し」のプロセスの一部である「感情的理解」。その理解ができると、ものごとの見方をポジティブに変えていくことができます。パートナーとの別れを例にして、そのプロセスを見ていきます。

「感情的理解」のプロセスと、その先にある感謝と恩恵。

その相手やできごとを、感情面から理解していこうとするプロセスについて、お伝えします。それによる恩恵は、誰よりも自分自身に与えられるものだったりします。

「無害者」の視点に立つには、自分が我慢することではなくて、自分の心に余裕を持たせること。

「加害者」でも「被害者」でもない、「無害者」の立場。その立場に立つためには、自分が我慢することではなくて、その逆に自分の心に余裕を持たせることが必要です。

誰かのせいにも、自分のせいにもしない、「無害者」という視点。

加害者でも被害者でもない、「無害者」の視点というものがあります。誰かのせいにするでもなく、かといって自分のせいにするでもなく、起きていることをそのままに引き受ける姿勢です。この視点は、自分の生を主体的に生きることを助けてくれます。

自分の生をそのままに引き受ける、「アカウンタビリティ」という見方。

「アカウンタビリティ」という概念があります。自分の生を主体的に引き受け、生きていくためには欠かせない見方です。

自己肯定とは、「自己否定してしまう自分」も受け入れてあげること。

自分を肯定する、受け入れる上で大切なのは、それができない自分も肯定してあげる、という点です。それは、自己否定をしてしまう自分を、まるっと包み込んでしまうようなイメージです。

選択権は常に自分にあり、何を正解とするかも自分次第という意識を持つことの大切さ。

ものごとにはいろんな見方があり、いろんな選択肢があります。どれが正解か?と考えるよりも、その選択権は常に自分にあって、何を正解とするかも自分次第という意識を持つことの方が大切です。

どうして、自分の周りにはイヤな人ばかりが集まってくるのだろう? ~2つのアプローチから考えてみる

自分の周りに、イヤな人ばかりが集まってくると感じるとき。場所と投影という、2つの視点からのアプローチをご紹介します。

「投影」を、自分と向き合うためのヒントにする視点とは。

「投影」は、心理学のなかでも最も重要な概念の一つです。この「投影」の見方を使って、自分と向き合い、そして愛していくための視点をご紹介します。

目に映る現実から、自分の本心が見えてくる。

目に映る現実が、自分の望むものではなかったとき。そこから、自分の本心と向き合うことができます。そんな見方について、お伝えします。

幸せを感じるために、条件を付けたがる心理とは。

幸せを感じるのに、何がしかの条件をつけたくなるものです。そうした心理について、少し深堀りしてみたいと思います。

幸せを感じるのに、条件付けなんて要らない。

何か問題があると、それを解決しないと幸せになれない、と考えてしまいがちです。しかし、真実はそうではありません。幸せを感じるのに、何ら条件付けは要りません。

自分が「犠牲」していることに気づいたときに、それをどう捉えるか?

自分が「犠牲」していることに気づいたとしても、何か悪いことをした、自分は間違っていた、と思わなくていいんです。それよりも、「犠牲」してまで与えたかった、愛したかった、という想いに目を向けてほしいのです。

「犠牲」の心理と、その奥底にある喪失感について。

「犠牲」をしてしまうのは、無価値感ゆえに、自分に役割が必要になるからです。その奥底には、なにか大切なものをなくした喪失感があるものです。

誰かを大切にしたいなら、まず自分を大切にすること。

与えたい人や、他人の心情を推し量れる人ほど、自分よりも周りの人を優先してしまうものですが、それは「犠牲」になりしんどくなってしまうものです。誰かを大切にしたいなら、まず自分を大切にすることが必要です。

加害者と被害者の心理的な負の連鎖と、その抜け出し方。

加害者と被害者は、立場を入れ替えながら癒着しやすいものです。そんな負の連鎖の心理と、その抜け出し方について、お伝えします。